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父のことについて書いてみる。

父の命日が近付いて…

父の命日が近付き、父のことについて書いてみます。

私の父は昭和18年(1943年)、戦時中の生まれでした。
私は父が34才の時に生まれており、母は父の7つ下です。
父は、高校を出てすぐに製薬会社に就職しましたが、すぐに辞め、海上自衛隊に入ります。結婚するまでの20代~30代の前半は海の上の生活だったと思います。
結婚してからは父の父のあとを継ぎ、保険会社の外務員として定年すぎまで働きますが、ずっと海や自然が好きな父でした。

近くの港に軍艦が寄港すれば、家族で観に行ったり、冬は毎週のように市内のスキー場へ、夏は毎週のようにプールや海へ、秋は山登り、ときには隣に住むお姉ちゃんやいとこも一緒に行きました。子供がすきな父でした。


父は工作も好きで、船を紙や爪楊枝で作り、そこに「〇〇丸」みたいな名前を書いたり。また、ルームランナーが流行った頃に、我が家にもあり、日本地図を父が書いて、家族4人が走った距離を地図上に描いていくこともやっていました。私と妹が完成させたガンダムのパズルを7つ、台紙に貼り、そこには「〇子(私)、〇恵(妹)、宇宙へはばたけ!ガンダムのように、強く、たくましく!」という父からのメッセージが書かれていました。どれも、友達が来た時に「これなに~?」と聞かれた時に説明するのが恥ずかしかったですが、父の手製の工作が家のあちこちにありました。

私は30代の頃に乗馬をはじめ、10年近く続けていたのですが、父の娘でなかったら、乗馬はすることは無かったと思います。同じくバイクの免許を取得したのも、父の血を受け継いでいるからだと思います。ただ、免許取得中に40kmのスピードを出さなければいけないコースがあったのですが、それが怖くて怖くて免許を取ったきり乗っていません。

いとこのお兄ちゃんが浪人中に引きこもりがちになっていた時がありましたが、父が父の母の実家の農家の芋ほりにそのいとこを連れていったことがあります。

父の葬式のとき、いとこのお兄ちゃんが「おじさんにあの時芋掘りに連れて行ってもらったこと、本当に感謝している」と話していたのを聞いて、父らしい人助けのあり方に私も誇らしく思えたのを覚えています。

大きなことじゃなくても、そうやって誰かの必要としている時にさりげなく役に立つことが出来て、自分のお葬式のときに「あのとき、ふじぴー(私)にこうしてもらえてよかった」と思ってもらえる人が一人でも多くいてもらえるように日々を行きたいと思います。

花嫁姿も、孫も見せてはあげられませんでしたが、パズルに書いてくれた父のメッセージのように「ガンダムのように、強く、たくましく」やっていきたいと思います!


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