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物理学のノート

りんりん

電話のベルが鳴った。
春の陽ざしがあふれる4月の日曜日。

高校の3年生になりたての僕は
進路をどうするのか、といった現実的な人生における選択について
考えないといけない時期だった。
けど3年に上がったばかりだし、
こんな暖かな春の午後にはそんな難しいこと考えられないよね。
畳の上にゴロンと横になってレンゲ畑のことなんか夢に見ながら
うたたねをしていた。

りんりん

ぬくぬく幸せに微睡んでいたけど
誰も電話に出ない。
しょうがないな、と思いながら受話器をとった。

「もしもし?佐之さんのお宅ですが?」
「はい、そうです。」

少し低めだけどコロコロしたかわいらしい声。
聞き覚えがあった。

「カナヲさんはいらっしゃいますか?」
「僕です。南先輩?」

電話をかけてきたのは南日菜子、ひとつ上の先輩、
この春に高校を卒業していた。

「卒業式以来ですね、どうしたんですか?」
「ちょっとお願いがあって電話したんだけど、迷惑だったかな?」
「大丈夫ですよ。暇だし。」

僕の進んだ高校はいくつか変わったところがある学校だった。
他校からは「レジャーランド」とか言われるくらい
文武両道においてたいした成果のない、とてものんびりした学校で
カスタマー(=生徒ね)フレンドリーな伝統があった。

そのうちの一つに、新1年生が早く学校やクラスに馴染めるように
上級生が面倒を見てあげましょう~、というのがあって
ひなちゃん(僕は彼女をこっそりそう呼んでいた)は
僕たちのクラスを担当してくれた女の子だった。
そしてひなちゃんは僕が親しくなった最初の先輩となったのだ。

上級生が面倒を見てくれたのも4月で終わり。
その後、ひなちゃんとはクラブが一緒になるわけで無し、
帰る方向も全く違うし、
何かで会えば話をするくらいで
特に関係が深まるでもなく彼女は卒業していった。

「よかった。あのね、私がいま行ってる学校は知ってたっけ?」
「どこかの大学に行ったんでしょ?」

聞いていたのかもしれないけど覚えてない。

「私いまね、医療系の学校に通ってるの。看護師になるのよ。
 言ってなかった?」
「たぶん」
「それでね、今は1年で一般教養科目があるんだけど、
 その中に物理があるの」
「物理ね。おもしろいですか?」

物理は僕も2年で選択していた。
嫌いではないけど得意ではなかった。

「私、高校ではとってなかったから難しくって…」
「選択してなかったって、受験はどうしたんですか?」
「受験の時は生物で受けたから」
「なるほどー。」
「それでね、佐之くん、確か物理とってたでしょ?」

なんで知ってるんだろう?そんな話もしたのかな??

「とってたけど2年の話ですよ。今年はどうかなあ」
「あのね、勉強したところまででいいから、ノート見せてもらえない?」
「ノートって、僕の?物理の??」
「そう。」

僕はちょっと考えてみた。
窓の外は相変わらずいい天気で光があふれている。
モンシロチョウがふわふわと飛んでいた。

「いいですよ。」
「やったー!ありがとう。助かるよー。」
「で、いつ渡しましょうか…早い方がいいですよね?」
「そうね…」

これを口実にひなちゃんとデートしよう。
季節は春だし、ひなちゃんとお日様の下でお話しできたらうれしいな。

「来週、森林公園にある湖のボートの上で渡すっていうのはどうですか?」
「スパイ映画か何かみたいね…」

ほんの少し考えてから彼女はOKしてくれた。

「いいわ。じゃ来週ね。」

次の日曜もきれいに晴れた。
とても気持ちのいい4月の朝だ。

約束した時刻すこし前に待ち合わせの駅に着く。
それからいくらもしないうちに彼女もやってきた。

「お待たせ。久しぶりね!元気だった?」
「元気ですよ。先輩も元気そうですね。」

僕たちは並んで歩き始めた。
目的地の湖までは1時間ちょっとかかる。

ひなちゃんは背が低くて少しふっくらしたほっぺたをした
かわいらしい女の子だった。
いつもニコニコしていて春の日にほころんだタンポポみたいだ。

彼女は白いブラウスに淡いクリーム色した薄手のカーディガンを羽織って
下は紺色のキュロットスカートに白いスニーカーを履いていた。
僕はジーパンにオレンジのコンバース、上は薄い緑の長袖シャツという格好。

少し薄着かなと思ったけど
完璧な天気と丘陵地帯の緩やかな上り坂のおかげで
ぜんぜん寒くはない。
お互いに近況を話し、ときおり景色を眺めながら歩いた。
くすぐったい風が吹いて鼻先をむずむずさせた。

お互いのことをひとしきり話し終えたころ湖に着いた。
湖面はきれいに凪いでいた。
何組かの家族連れやカップルがボートに乗っていた。

僕はお金を払ってボートを借りた。
最初に僕が乗って、「はい」と彼女に手を伸ばした。
彼女はにっこり「ありがとう」と言って手を取ってボートに乗り込んだ。

僕がオールを漕いだ。
湖の中ほどまで行ったところでオールを離した。
光は降り注いでいたけど濁っていて水の中までは見えなかった。

「はい、これ。」
僕はカバンからノートを取り出して彼女に渡した。
「あ、ノートね。ありがとう。」
彼女はパラパラとページをめくった。

「あげます。役に立つといいけど…」
「うん、頑張って勉強するね。でも佐之クンはいいの?」
「うん、もう物理はとらないと思う。文系に行くことにしたから。」
「そう?佐之クンは理系に行くと思ってたけどなぁ。」
「そんな風に思ってたときもあったんだけどね。」

4月の完璧な空とあたたかな陽ざしの中で揺れるボートと彼女のやさしい笑顔が
同時に存在しうることの証明は僕にはちょっと難しすぎた。

15分ほど湖面に揺られてから岸に戻り
ボートを返して丘をくだった。

突然、彼女が
「ねぇ、私っていつも笑ってるよね?」
と尋ねてきた。
「うん。いつも笑ってる。でも凄くいいと思いますけど。」
と正直に答えた。
「ありがとう。」
彼女はいつもどおり微笑んで
「私、佐之クンとは付き合わないよ。」
と言った。

「そうだよね。」

僕は返事をした。わかってたんだ。

でもやっぱり、やさしい笑顔は難しいな。

ひなちゃんはお礼に手作りのクッキーをくれた。
バニラの香りの、ほんのり甘いクッキーで
おいしくてその日のうちに食べちゃった。

ぽりぽり

…ときどき思い出して考えるんだけど
僕の汚い字じゃあ、あのノート
ぜんぜん役に立たなかったんじゃないかなあ。

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