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「(K)not」第三十九話

 花火の夜に目が覚めた聖名は、全てがまだぼんやりとした微睡みの中にいて、病院のベッドの上でウトウトと睡眠と覚醒を繰り返し、やがてカーテンから薄ら朝の光が透けて見える頃、じわじわと意識が体に馴染んでくる様だった。そのうち記憶や疑問が次々に湧いて、病院の天井を眺めながら聖名は考えた。

 なんで歩けないの?
 なんで髪伸びてんの?
 この浴衣いつ出来上がったの?
 そもそも着た覚えがないんだけど?
 なんで病院にいるの?
 マドのあの頭、何?

 昨日まで、と言っても聖名の魂に日時があったかは不明だが、それまで確かに病院とは異なるところにいたはずなのだが、はてさてまるで記憶がない。それでどこまで覚えているかと言われても、こちらの記憶だかあちらの記憶だか明確に線引きができない。聖名の感覚では、記憶がないのはほんの何日かのことで、自分が約1年もの間意識が無かったなど、とても信じられなかったのだ。しかし隣のベッドの上で点滴に繋がれた晴三郎の憔悴した様子を見るに、どうやらそれが本当であると認めざるを得なかったのである。

 弱々しく伏していた晴三郎は、今朝はまた聖名を抱きしめてオイオイ涙を流したかと思えば、今は元気いっぱい病室内を掃除している。昼過ぎには襟人が迎えに来るそうで、晴三郎は、その時聖名も一緒に家に帰れるものだと思って入院中に運び込んだ荷物を整理していたのだ。しかし一年もの間寝たきりだった患者をおいそれと退院させられる筈もなく、とりあえずはリハビリのため検査入院の手続きをすることになった。その時の晴三郎の落胆ぶりには思わず「ドンマイ」と肩を叩いてやりたくなった。

 自分の主治医だと名乗る沖崎は、聖名が目覚めたことに痛く興味を示しており、早口にその理由を述べて寄越したが、半分以上意味不明な話だった。ただ「とってもお世話になったんだから失礼の無いように」と無言の圧をかけてくる晴三郎の為に、沖崎オンジンの話に大人しく耳を傾け、熱心に頷き、「スゴ〜い」などと時々相槌を打ってやり過ごした。ただ唯一彼の話の中で理解出来たことは聖名の「御守り」についての話だった。自分が産まれた時から持たされているこの御守りを、沖崎は「共物質」という聞き慣れない名前で呼んだ。そして非常に稀で大切なものだから常に身に付けておきなさい、とアドバイスをくれた。聖名はどうにか加工してペンダントにでも出来ないかしらと自分の瞳の色と同じ色の石を覗き込んだ。

 沖崎からは、並行して脳のトレーニングになるからと日記をつけ記憶を整理することを勧められた聖名だったが、先ずペンを持つことが出来なかった。一年もベッドの上で寝ていた体は自分が思うより不自由になっていることに驚く。またペンを正しく持つことが出来ても文字を書くことが出来ない。翌日からは日常生活を元通りに送れるようにリハビリが開始された。晴三郎が毎日のようにやって来ては甲斐甲斐しくサポートをしてくれるので、上半身の筋力は順調に回復してきたが、まだ自力で立ち上がり歩くことが出来ない。頭に電極を付けたり脳の輪切り写真を撮っても、文字は書けないままだ。読めるのに、書けない。沖崎から渡された日記帳が聖名の筆跡で埋まることは無かった。

 夏休み最後の日。

「ほら、何やってるの?入りなよ。」

 いつもの様に通ってきた晴三郎に笑われながら手招きされて、そろそろと病室に入ってきたのは、襟足をさっぱりと短く刈り込み高校の制服を着た爽だった。借りてきた猫の様にきょときょと周りを伺っている。いつもの彼だった。 

「わあ、髪切った?」

 開口一番、聖名がそう言うと、恥ずかしそうに視線を落として頷く。

「お、父さんに、切って、もらった。」

「似合ってる似合ってる!」

「み、短すぎる。スースーする。」

 死守した前髪を引っ張りながら耳を真っ赤にしている彼を、晴三郎は何度も頷きいつまでもその頭を撫で回している。聞けば、爽は一年生の二学期から編入する形で復学をするという。爽は聖名を置いて一人学校生活へ戻ることを申し訳なく思い、それを告げに来たのだ。爽も聖名も決して成績が良い方ではない。いや下から数えた方が断然早い順位だった。しかもお互い高校一年生の一学期までしか授業を受けていない。爽に至ってはまともに通学できたのは二ヶ月だ。聖名は、一年前のまま少し大きいその制服にまた袖を通した彼の覚悟を讃えて、自分もリハビリをがんばって一日も早く家に帰ると宣言した。

「絶対、歩いて帰るからね!」

「いや普通に車で迎えに来てもらいなよ。」

「ココロガマエ!気持ちのことをゆってんの!ほんと爽って変なとこ現実的だよね。・・・て、お父さんはいつまで爽の頭を撫でているの?」

「だって、めちゃくちゃ可愛くて〜。マドなんてこの頃触らしてくんなくてさ〜何だか急に大人になっちゃった。」

 晴三郎は末っ子の反抗期にシュンと肩を落としながらも、抵抗しない爽の頭を撫でる手を止めない。飢えているのだろう。
 
 そんな親の気持ちを知ってか知らずか、甘え上手で可愛いだけの末っ子は新学期になっても髪色を戻そうとしなかった。初めから大人たちの気を引こうとして染めたわけではなかったし、ましてや夏休みの間だけというノリでもなかった。思春期におけるアイデンティティの確立、自分探し、反抗、単に目立ちたい(モテたい)そのどれでもなかった。

「願掛けだけど、何か?」

 聖名が目覚めてからと言うもの、瞬の好奇心は止まることを知らず、今日も有馬の仕事場へ入り浸っている。どうせ学校に行っても素行についてうるさく言われるだけだし、勉強はオンラインの講義で十分だし、発禁図書館ここにいて貴重な書籍を読み漁っていた方が人生にとってよっぽど有益だと瞬は主張した。それについて魑之は彼を職場の「観葉植物」として採用した。

 有馬は「ボスが良いってんなら良い。ただし面倒だから家族には言うな。」とだけ言って瞬の好きにさせている。一度だけ、有馬の仕事を邪魔した際には「二度とすんな」と釘を刺された。それ以来瞬は自分の役割に徹している。観葉植物は案件に関わってはいけないのだ。許されているのは「ただそこ・・にいるだけ」なのだった。

「瞬、あの頭で学校行ってんの?何も言われないの??」

「それがさ、何にも。こっちはいつ呼び出されるかビクビクしてるのに。」

「まあ彼奴んとこ、かなり革新的なカリキュラムだって聞くからな・・・髪の色くらいなんでも良いのかぁ。」

 自分たちの学生の頃とは随分違うな、と和二郎は嘆息する。しかし晴三郎の手前良く言って革新的、悪く言えば実験的である。古き良きカトリック校に通う聖名とは違い、瞬の通う学校は複数の企業が出資して運営している中高大一貫式の私立で、実校舎を持たないバーチャル校も増える中、それでもまだ登校というスタイルを採っている。生徒たちの能力を伸ばす過程で計測されるさまざまなデータを学校側へ提供するという条件のもと、それに係る学費等は企業の研究開発予算から充当され、つまりこれを「学費タダにするから色んな実験のデータ取らせて❤️」という体のいい治験だと指摘する声も、設立当時はかなりあったと聞く。

  一週間前に手渡したが未だ何も書かれていない日記帳を手に、沖崎はフムと考え、「これならどうかな?」と聖名にトレーニング用のワープロを差し出した。すると聖名は興味深げにキーボードを見つめ、一つ一つタイピングしながらモニターに現れた文字を読んで「あ、これなら分かるかも。」とモニターを食い入るように見つめ続け次々に文章を作成していく聖名を、食い入るように沖崎が見つめる。

(一般的なプリントディスグラフィアではないのだな・・・面白いから後でちょっと脳波録らせてもらおっと。)

 そうして、聖名が無事氷川家に帰還するのは、朝晩の空気が少し冷たく感じられる様になった10月の終わりであった。

序〜第三話、はてなブログからの転載です。