見出し画像

第三十一話

 遠くの雷鳴がまだ明るい空に轟く。ドラムロールの様に低くじりじりと近付いて来た音に、晴三郎はカーテンの隙間から外の様子を確認した。庭の植物たちに被せたシートが捲れていないか、片付け忘れた植木鉢は無かったか、ガレージのシャッターは閉めたか云々。墨を水に溶いたような雨雲が、明るかった空に滲んであっという間に光に幕を引いてしまった。

 風に揺れた広葉樹の葉にパタパタっと雨粒が落ちたかと思うと、途端に硝子を叩く大粒の雨に変わる。

「降ってきた?」

 雨戸を閉めて暗くなったリビングの照明が点いたので、声の方へ振り向くと、少し前に帰宅した理紀が立っていた。晴三郎が頷くと理紀は「セーフ」と言ってリモコンでテレビの気象情報を点けるとソファに腰掛けた。

『非常に大型の台風○号は、勢力を強めながら北西に進み、今夜から明日にかけて関東全域に上陸する見込みです。なお、神無川県では台風に伴う暴風により、交通機関の寸断、物流のストップ、停電とそれらの被害影響の長期化の恐れがあります。また、横浜湾岸では高波・高潮による浸水害への備えが必要です。日本気象協会が発表した台風○号は916hPa、最大瞬間風速50〜60m/sとなる可能性があるとのことです。』

 アナウンサーが淀み無く台風情報を伝える画面を見つめたまま、晴三郎は「起きないね」と言った。理紀は、それが爽のことか聖名のことか図り兼ねて、咄嗟に言葉が出てこなかった。爽の投薬管理を怠ったことは和二郎にしか話していない。しかし遠回しにその事を責められている様に感じてしまう。

 晴三郎は、昂った次の瞬間生気が無くなったり、まるでここ数日の気圧に連動しているかの如く情緒が乱れていた。そもそもの原因である委細巨細いざこざは、正一郎に口止めされた事を、自分が晴三郎に話してしまったからだと、理紀は今、二重に責任を感じていた。

(何も言えねえ。)

 胸に手をやって奥歯を噛み締め、自責の念に耐えていると、何処を見ているのかわからない晴三郎が微かに呟くのが聞こえた。

「爽ちゃん、聖名に会えたかな・・・。」

「は?」

 理紀は思わず聞き返していた。

「あれ、マドから聞いてない?今、爽ちゃんが聖名を探してくれているんだよ。」

「は?え?は?」

 ついにキレてしまったかと、理紀は青ざめた。しかし正一郎も襟人も居ない。いや、あの二人が居たらかえって面倒なことになるか?和二郎は元より頼りにしていないし、有馬がいたところで多分、居るだけである。

「この前、マドが言ってたでしょ、有くんのとこの社長さんと同衾したって。ああ、同衾てゆーのは所謂ソッチの同衾じゃなくって・・・」

 焦点のあっていない目をした晴三郎は、更に訳の分からない方向に進んでいく。嗚呼ソッチか、末っ子の奇行がトドメだったのか。と理紀は唇を噛んだ。しかし今この事態をどうにか出来るのは自分しかいないのだと腹を決めると、理紀は晴三郎を見据えて尋ねた。

「ちょっと待って晴さん。同衾にアッチとかソッチがあるのは置いといて、一回落ち着こ?で、爽が聖名を探してるって、何?どういうこと?」

「え?え〜・・・?ひょっとして、これ言っちゃいけなかったヤツ?ホントに聞いてないの?」

「聞いてねえし!」

 最早、理紀が落ち着くべきだった。

「やば・・・ええと、アレだよ。」

 そう言って、晴三郎は少々罰の悪い顔をしながらも、母たちの墓参りの日のことを話し始めた。あれから一週間も経っていないというのに、もう随分前の出来事の様に感じる。その日は中華街で食事をして、繰り返し見る夢の話をした。家族の誰かが大切な物を失くして、見つけて欲しいと頼まれる夢。しかし夢から醒めると、失くしたのは誰なのか、その失くし物が何だったのか忘れてしまう。そしてみんな同じ夢を見ていることに驚いた。

「あれから思い出したんだけど、言う機会が無くて。失くし物ってあんなカタチをしていたなって。」

 自分も何処かで目にしたはずだ。あの印象的なカタチを見たのはいつだったか、理紀は記憶の糸を手繰り寄せた。そして、

「あ、爽がしてた・・・爽が首から下げてた!そうだ、それを見て思い出しかけて・・・そしたらアイツ急に暴れ出して・・・!」

 積もった鬱憤が噴出したあの夜。その後のことは嵐のようで、思い出しただけで頭が揺れる。

「あのカタチ、トリケトラって言ってね。聖名が生まれた時、貰ったものなんだ。あの子の御守りみたいな物かな。だから、僕達の夢に出てきたのは、聖名だったんだと思う。」

 そう言った晴三郎の瞳はとても静かに凪いでいた。

 事故が起こってから手に入れたのか、あるいは聖名に託されたのか。失くし物が何なのか誰も知らなかったというのに、夢の話を振られた爽がその場から逃げ出したのは、それを隠し持っていたからだ。ということは、爽もあの夢を見ていたということだろうか。

「だから、今度はその反対をやるんだって。」

「反対?」

「失くし物を見つけたから、聖名に届けに行く。」

「届けに行くって、何処に?病院に?」

 話が見えない理紀が戸惑って尋ねると、晴三郎は静かに首を振って言った。

「聖名の魂の在処へ。」

 雨戸を揺らす風は益々強く、時折狂人の叫び声のように高く鳴る。生木を削くような音とともに落ちた雷鳴の振動が体にまで響く。

 嵐はすぐそこまで来ている。

序〜第三話、はてなブログからの転載です。