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第三十六話

 5階建ての校舎の屋上に建てられたフェンスの向こうに上がった狼煙が爆ぜて、夜空に血の様に紅い大輪が咲く。そのとびきり派手な目覚ましの音と震動に、瞬は目を覚ました。
 
 「何だ今の!?どうなってる!?」

 彼らが痴呆のようにあんぐりと口を開け天を仰ぎ、真上で黄色の牡丹が開花したとき、

 「あっつ、ああっつ!熱っ!!」

 信じ難いことに降ってきた火の粉が無精髭を焦がし、和二郎は半狂乱でそこらじゅう転がり回った。彼のパニックが周りに伝播して、眠っていた家族たちが次々に飛び起きる。

 寝起きドッキリ大成功というかもう、寝起き阿鼻叫喚だった。

 可哀想に和二郎は火傷した顎を抑えながら涙目で花火を見上げている。父親の悲惨な姿を目撃した理紀は、初めて感じるほろ苦い切なさに耐えながら同じ空を見上げた。混乱に乗じて手を握り合っている襟人と晴三郎を瞬は見逃さなかったが、やはり彼らも等しく空を見上げていた。そんな中、目が覚めてみたら何だかエラいことになっていたと言うのに、正一郎は鬼の形相で携帯に怒鳴り散らかしている。しかしこんなに取り乱す彼を見るのは珍しかった。

「てめー聞いてねえぞ、限度ってもんが・・・は!?何言って」

 三発目の白煙は光を纏い、高速回転しながら宙を穿った。

 明らかに前の二発とは異なる禍々しさを辺りに撒き散らし、一瞬大きな土星の輪のように紫紺の煙が夜空に広がる。小さな星たちがその輪の中でチカチカと明滅し、まるで宙に巨大な魔法陣が描かれたかの様に見えた。

「ウソ、スッゲぇ・・・!」

 何処までも広がる様に見えた魔法陣は成長を止め、白煙が火花の文字を描き換えると、今度は急速に中央の星に吸い込まれるように収縮した。そこにいる皆が爆縮した花火を固唾を飲んで見守った。否、目が離せなかったのだ。

 静寂。
 
 そして爆縮した空の一点から、ポロリと何かが溢れた。

 それに反応した黒い影が目にも止まらぬ速さでフェンスを駆け上り、あっという間に頂上に到達すると両腕でそれをキャッチした。

「ゆうちゃん、ナイキャッチ!」

 溢れ落ちたのは、長い巻き髪を左右に分け全身黒衣を纏った少女だった。少女の周りには黒い羽が舞っていて、有馬の肩や背中に纏わり付いた。全くあり得ない高さから飛び降りて何ともない辺りこの男の特異性を表しているのだが、有馬の強運や人間離れしたフィジカルに慣れてしまった家族たちには特に刺さらない。

 「お帰りなさい、ボス。」

 舞い落ちる黒い羽毛を払って有馬が呼び掛けると、魑之の瞳孔が閉じてゆく。やがて鴉の濡羽色をした大きな瞳に長い睫毛が二、三度瞬くと、まるで海面から顔を出した瞬間のように、ぷはあ、と息を吹き返した。

「にゃんだ、ここに出ちゃったか。」

「お疲れ様ッス。ええと、20XX年8月XX日。20時42分ッスね。」

 そっか、と魑之は黒猫のように伸びをしてから軽やかに有馬の膝の上から降りて屋上の様子を伺った。少し離れた所にいた沖崎と目が合った魑之は「よっ」と軽く挨拶して片手を上げた。そして今はただ茫然と立ち尽くす氷川家の面々に思わず吹き出した。

「こりぇは皆さん、お揃いで。」

 舌足らずで緊張感の無いアニメ声はその場の空気を一気に払拭して、皆の正気を取り戻す。そして

「お目覚めかにゃ?」

 人々が皆夜空に咲く火の花を見上げ、地上への意識が途切れるその一瞬、ブルーシートの上で額を寄せ合って眠る二人に何が起こっていたのか、誰も知る由も無い。ただ、薄紅梅の浴衣の袖がふわりと揺れて除いた白い腕が、指が、隣の萌葱色の袖に重なったのを見逃した者はいなかった。白い指先は探していたのだ、そして萌葱色の袖から伸びる細い手首に触れると、結んだ指の中からあの印象的な形をした御守り・・・がこぼれ落ちた。

 真夏の校庭、蝉の声、向日葵と白い日傘。
 夏の夜の夢。
 そう、ずっと夢を見ていた。

「おはよ。」

 そう言って彼は僕の手を握る。御守りは二人の手の中にある。そうだ、あの日僕はこの笑顔が見たくて捧げたんだ。

 花が散った空にはいつしか星が瞬いて、夜の帳が今夜この屋上で起こったことにそっと幕を下ろした。

                  *                 

 せっかく皆揃って浴衣を着て出掛けたのに、急にお父さんは倒れてしまった。僕の目が覚めたことがよっぽどショックだったみたい。丁度お医者様が居合わせたのでそのまま緊急搬送されちゃった。運が良いのか悪いのか。僕も目覚めたばかりだから色々心配だと言うことで、今日は病院へ泊まることになった。

 で、何の冗談か、僕は今お父さんとベッドを並べて寝ている。 
 お父さんは腕からチューブが伸びて一定間隔で薬液がぽとぽと落ちて来るやつ、点滴をやってすやすや寝てる。何だこれ。

 でも、お父さんこんなに細かったっけ。頬もこけて首も筋だらけ。肩なんかも、小さい時肩車をしてくれた肩と同じ肩とは思えないくらい弱々しい。たった何日かでこんなに痩せちゃうなんて、夏バテかな。一体僕はどれくらい夢を見ていたのかしら。そんなことを考えていたら、うとうとしてきちゃったな。

 明日は何をしようかな。早く爽と話したい。
 今度は僕がおはようって言いたい。
 爽、笑ってくれるかな。
 笑って。

序〜第三話、はてなブログからの転載です。