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不妊治療の向こう側 〜"卒業"への伏線〜

40代、夫と愛犬との三人暮らし。12年の不妊治療を経て数年前に卒業。
不妊治療を始めたとき、不妊治療まっただ中のときの自分へ。
不妊治療の向こう側を生きる、今の自分が伝えたいことを綴ります。

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不妊治療の卒業を決めるにあたり、
振り返ってみると、今だからこそ「伏線」と言える体験・経験がいくつかあったように思える。

今回の話は直接的に不妊治療にかかわる話ではないが、上記の観点でとても重要なことなのでここに記しておきたい。

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あれは30代半ばにさしかかろうとしていた頃。
自分のキャリア(*)が大きく変わった。いや、大きく「自分が」変えた。

*「キャリア」= 職務経験を含む人生そのもの、と定義する。

会社勤めからフリーランスへ。

30代に入った頃からだろうか。
なんとなく数年後には独立して働く自分のイメージがあった。

「自分が好きなときに好きな人と好きなことができる時間を手に入れる」
「(子供を含む)家族と共に人生をエンジョイしている」

そんなことを目標に独立への青写真を描いていった。

そして独立して10数年経った今、まさにそれを生きている自分がいる。

ただ一つ。
「子供を含む」という部分は叶うことはなかったが...。

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新卒で東証一部上場企業に就職し、新規事業の立ち上げ、広報という仕事をまかされた。まさか新人にここまでまかせるか?!という大仕事にも挑戦する機会がもらえた。右も左もわからない中、手探り状態の中で、成果を出すべく自分なりのやり方を必死に探った。体力的にはきつかったが、ものすごくやりがいがあった。

途中、学生時代から結婚を前提につきあっていた彼との別れがあった。大失恋で心身ともに憔悴した。彼(=拠り所)という存在をなくした喪失感を何かで埋めようとそれまでにも増して仕事に打ち込んだ。毎日の平均睡眠時間が2-3時間になっても、手を抜くことなく働いた。

ある日、携帯を持つ手が震え、電話がとれなくなった。
食べ物も味がしなくなり、喉を通らなくなっていった。
寝られない日が続き、日中ふとした瞬間に自分の意思とは関係なく涙がツーっと頬を伝った。

...限界だった。

急遽休みをとり、実家に帰った。
病院に行ったところ「心身症」との診断で、精神安定剤を処方された。
毎日ぼーっと、ときどき涙を流しながら、実家で過ごした。

二週間ほどした頃だろうか。
ふと仕事をしたい、と思っている自分を見つけた。
意外だった。

今思ってみると、確かにハードワークではあったものの、仕事が嫌いになったわけではなかったし、仕事上で何か嫌なことがあったわけでもなく、仕事をするということには何ら問題はなかった。

よってほどなくして仕事に復帰した私は以前にも増してバリバリ働いた。

数年後、
この会社で自分は十分に働いたし、自分にできる貢献はしたのではないかと思うことが多くなったとき、次に進もうと決め転職活動を始めた。

次は学生時代から興味のあった「教育」分野でチャレンジしてみたいと思っていた。そうしたらほどなくして、登録していた転職サイトからスカウトメールがきた。そして私は転職した。

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二つ目に働いたのは、名だたるビジネス界の大御所たちが理事、サポーターとして名を連ねる、「教育」分野のNPO法人だった。

そのNPO法人では、日本のビジネス界において重要な役割を担い、大きな影響力を発揮していくであろう、志ある次世代変革リーダーたちを育成するというプログラムに事務局として関わらせてもらった。またビジネス界のリーダーたちにインタビューをして記事にするメールマガジンの編集にも携わらせてもらった。

もがき苦しみながらも切磋琢磨しながら頑張っているリーダーのみなさま、日本を牽引する経営者・コンサルタントの方々、ひいては国内外にて活躍する学者・研究者の方々、普段なら絶対に接点を持てないであろう方々の話を聴く機会が多々あった。

そこにはそれぞれの方の想いがあった。志が感じられた。

そんな方々との接点がある中、私はどんどん勘違いしていった。どこかで自分とそうした方々を重ね合わせながら、あたかも自分もすごいことをしているような気持ちになっていった。

しかしあるとき、あらためて自分に矢印を向けてみたところ、、、
あまりに自分の中身が空っぽなことに、愕然とした。

あれ?一体私は何のために働いているのだろう?
本当のところ、私は何がしたいのだろう?何ができるのだろう?
私って誰なんだろう...

こうした答えのない問いは、ときに自分を追い込んでいく。
自問する日々が続き、悶々とすることが多くなっていった。

人生二度目のアイデンティティ・クライシスだった。

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時を同じくして、結婚して3年ほど経っていた我々夫婦は妊活を始めていた。

無意識ではあると思うが、ちょうど自分のアイデンティティを見失っていた頃だったこともあり、子供を産む=母になる、自分=母、というアイデンティティが欲しかったのだと思う。

妊娠さえしてしまえば、あわよくば転職活動はしなくてもよくなるのではないか?この転職活動中になんとか妊娠しないものだろうか?そんな甘い考えも自分の中に浮かんできた。

しかし世の中、そんなに甘くはなかった。
二度目の転職活動、妊活、共に苦戦した。

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何もうまくいかない現状から逃避したくなった私の身体はだんだんベッドから起き上がる気力を失い、自堕落になっていった。毎朝、ベッドの中から夫の出勤を見送り、夜も早々にベッドに入り、そこで夫の帰宅を迎える、そんな日々が続いた。

そんな私を夫は冗談まじりに「くの字の女」と呼んだ。

しばらくそんな日々を送っていただろうか。
ある日、陽気が気持ちがよかったので、ひさびさ陽の当たるリビングのソファで過ごしていたとき、ふとアメリカで過ごした中学・高校時代に思いを馳せる時間があった。思春期、そして多感な時期を過ごした頃のことに...。

そして、私は思い出した。
あ、私、学生時代から「教育」に興味があったよな、と。
そうだ、だから大学はわざわざ教育学部のあるところを選び、教職過程もとり、教育実習にも行き、教員免許も取ったのだった。

そう、私は「教育」に興味があったのだ。
教育だ、教育。それを思い出した。

もとを正せば、人生初のアイデンティティ・クライシスに陥ったのが、アメリカにいた頃だった。自分は何者なのか?ずっとずっとその正解なき問いと共にい続け、最終的に行き着いたのが...

『私は日本人である。』

というアイデンティティだった。
そして当時の私は恥ずかしげもなく、こんなことを思い帰国したのだった。

私は、日本を、日本人を元気にしたい!
私たちにはみんな、無限の可能性がある!
自分で選択する生き方、道(=納得のゆく人生)を歩む人を増やしたい!

なぜこういう想いに至ったのかは、いずれまた記すとして、こんな暑苦しい想いを持って帰国したのは事実だった。

すっかり忘れていた自分の志を思い出した。

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少し話が脇に逸れたが、
自分の秘めた想いにあらためて気づいたのと時を同じくして、不思議なことにそれまで遅々として進んでいなかった転職活動にも動きがあり、三つ目の会社への転職が決まった。人材教育分野のコンサルティング会社だった。

その会社には五年間在籍し、その後、冒頭で書いたとおり、教育分野においてより活動の幅を広げるべく、フリーランスとなり、今に至っている。

さて、私のこうした仕事歴、自分は何者なのか?という問い(アイデンティティ)の探求、自分の中にある想い、志、情熱の発見などが、どう不妊治療の卒業への伏線となっていくかは、このあと綴っていきたいと思う。

(つづく)


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