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【韮山】溶鉱炉の守り人

執筆日…2022/10/30
この旅行記は、筆者が2022年7月〜2023年10月にかけて日本一周していた際に執筆したものです。

 私は「守る」という言葉が嫌いだ。これほど言うは易く行うは難いことはない。一生君を守るから、と言ってそれを成し遂げた人が果たしてどれほどいるかもわからなければ、災害から地域を守ろう、と打ち出した対策を自然の脅威はいとも簡単に呑み込んでいく。だからこそ私は、目の前にある4本の煉瓦造りの煙突が今もここにあることに、畏敬の念を覚える。その建造物の名を、韮山反射炉という。

 19世紀は自由貿易の時代だった。欧米諸国は偏西風の季節になると、帆掛け船で風に乗り、アジアへとやって来た。日本も、九州など西側の国を治める大名は外国船が来ていることを知っていて、自国を守るためには当時最強の兵器であった大砲が不可欠だとわかっていた。大砲の製造には、熱を内部で反射させて銑鉄を溶かせる温度にまで上昇させる製鉄所(反射炉)が必要となる。そのため長州・萩には反射炉があったが、幕府は外国船も江戸にまでは来ないだろうと高を括っていたため、首都の防衛に本腰は入っていなかった。
しかしそれに警鐘を鳴らしていた人物がいた。江川英龍(えがわひでたつ)である。江川は伊豆・韮山に生まれ、34歳のときに韮山代官(幕府の支配地を管理する行政官)を襲名した。幕府にも登用されており、そこで海防の重要性を訴えたのである。その対策の一つが反射炉の建設であったが、長らく泰平の世であったことが災いしたのか、建設の許可は下りなかった。
 しかし幕府にとって予想外の事態が起きる。偏西風の季節でないにもかかわらず、ペリーが来航したのだ。ペリーは初めて蒸気機関を船に搭載したのだが、これにより時期に関係なく航海ができるようになった。ペリーは平和の使節として開国を迫った。慌てた幕府は、翌年まで開国を待ってもらうことにした。そしてペリー来航の翌月、江川は大砲鋳造の命を受け、約半年後には反射炉の建設に着手した。建設にあたってはオランダの書籍を参考にしたが、基礎工事については何も書かれていなかった。ヨーロッパでは地震がほとんどなく、(現在はわからないが)当時基礎工事を行う必要がなかった。そのため、基礎は日本の伝統的な築城技術を応用し、松の太い杭を打ち込むこととなった。松の杭は、およそ2000年は朽ちることはないと言われており、今も反射炉の基礎を揺るぎなく支えている。

 4年後、満を持して韮山反射炉が完成。鉄製カノン(大砲)の鋳造が開始された。大砲造りには約47日間かかるという。鉄を溶かすのに2日、鋳型に流し込んだ鉄を自然冷却するのに1週間ほど。あとの30日余りは、大砲を発射する穴を開けるのに費やす。現在はダイヤモンド製のドリルがあるので1日もあればできてしまうが、当時そんな神器はなく、ドリルはすぐに削れて使い物にならなくなったため、穴を開ける作業と並行してドリルを製造し続けていた。しかし、結局開国してしまえば、外国から大砲を輸入したほうが早いし性能も良いので、10年足らずで大砲造りは終了し、韮山反射炉も御役御免となった。
 こうなると大砲造りに必要不可欠だった反射炉も、ただの遺構となる。時代はまもなく明治に移り、明治政府からはガラクタはみっともないから潰してしまえ、というお達しが来た。それに従い、国内の反射炉は取り壊されることとなった。しかし韮山反射炉だけは違った。領民が強く反対したのだ。江川大明神さまが建てたものを壊すなと。江川は代官として、領民を度々救ってきた。全国的な飢饉が起こったときも、備蓄しておいた米を領民に無料で分け与えた。江川はもはや代官ではなく神様として尊ばれていた。そんな守り神の偉業を、今度は領民が守ったのだ。こうして韮山反射炉は、一転保全されることとなった。そして実際に大砲を造った反射炉が現在にまで残されているという価値が認められ、2015年に「明治日本の産業革命遺産」の構成要素として、世界遺産の仲間入りを果たした。

「ありがとうございました」
 目の前の年配の男性は、謙虚にお礼をした。聴衆は自然と拍手をした。実際の反射炉を前に、ガイドとして男性がしてくれた解説は、興味深くわかりやすかった。こうして語り継がれることで、この建築物の価値は保護され続ける。国を、領民を守るために力を尽くした代官がいた。自分たちを守ってくれた代官が残したものを、必死で守った領民がいた。その一部始終を、今なお語り続ける住民がいる。「守る」ということの具現を見た私に、この話を書き残さない選択肢などなかった。

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