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【与那国島】雲と原付

執筆日…2023/10/8
この旅行記は、筆者が2022年7月〜2023年10月にかけて日本一周していた際に執筆したものです。

 日本最西端の港で揺蕩っている。
 与那国島における船の玄関口・久部良(くぶら)港にフェリーよなくにが入港してから、10分ほどが経過していた。最果ての地を目の前にして、早くその地を踏みたいと昂る私の思いをよそに、船のタラップがなかなかやって来ない。為す術もなく、静かに揺られながら待っていると、やっとフェリーの職員さんが来て、ゆっくりとタラップを下船口に接続した。
 フェリーを降りて、港の近くにあるレンタルバイク店で原付を借り、予約してあるゲストハウスへと走らせる。ヘルメットが吹き飛ばされそうなほどの風を感じるが、スピードメーターを見るとスピードは驚くほど出ていない。そこに明確なギャップがあったのは、道路を走る自動車がとても少なく、抜かされることが滅多になかったからだろう。私が東京で原付に乗っていた頃、何台もの自動車がばんばん私のすぐ横を通り過ぎていった。まるでそこは原動機付自転車が走る場所ではない、とでも言うように。でもこの島では、原付は速い。

 小綺麗なゲストハウスにバックパックを下ろし、まずはティンダバナへ向かう。ティンダバナとは島の中央部にある隆起した台形の岩で、その神秘的な姿はオーストラリアのウルル(エアーズロック)を彷彿とさせる。ここはかつて、与那国島を最初に統治した女酋長サンアイ・イソバの住処だったという伝説もあり、この島の歴史が始まった場所とも言える。
 ティンダバナには途中まで登ることができ、そこからは島内最大の集落である祖納(そない)集落が見渡せる。そこには漁港があり、家があり、車がある。それらは全て幻影ではなく、まさに今営まれている生活の証左であった。伝説が眠る岩を下り、下から全景を撮影しようとすると、どうにもフレームから電柱を外すことができなかった。

 島の中央部にある祖納集落から東に向かうと、道路を横切るように複数の大きな溝が施された場所がある。さながら罠のようで、溝に対して直角に進まなければ、タイヤが嵌ってしまう危険があるほどである。この溝の名前はテキサスゲート。もちろんこれは罠でもなければ、悪趣味な悪戯でもない。
 テキサスゲートを過ぎれば、そこには島の東端である東崎(あがりざき)がある。切り立った断崖の上には草原が広がっている。その草を、5頭ほどの馬が食んでいた。この馬はヨナグニウマと呼ばれ、日本の在来種として大切に飼育されているため、人間の居住区域との境界線としてテキサスゲートが設けられている。
 しゃなりしゃなりと歩くヨナグニウマは、すぐ側を歩く一観光客のことなど全く気に留めていないようだった。奈良公園の鹿とは相対する存在である。もっとも、東崎を訪れる観光客の数は奈良公園の1%にも満たないのだろうけれど。

 東崎から南西方向へ向かうと、島内最小の集落である比川(ひがわ)集落が現れる。そこにはビーチがあり、遠くまで青く澄んだ海が、静かに波を寄せては返し続けている。そのビーチの手前には診療所――正確に言えば、『Dr.コトー診療所』のセットがひっそりと残されている。
 僻地医療の問題は、波打ち際の足が徐々に砂の中に埋まっていくように、取り返しのつかないことになりつつある。地方の人口減少に歯止めはかからず、限界集落も増加の一途を辿るだろう。言ってしまえば、高齢者こそ都市に移住して、充実した医療体制のもと生活するのが合理的なのだろうが、それはあまりにも一方的な思想である。僻地とは都市の対義語でしかないのだから。空っぽのセットの前に広がる小さなビーチは、私の他に誰もおらず、ひたすらに淀みなかった。

 日没が近づいている。私は西へ西へと原付を走らせる。しばらくすると、東崎とは別のテキサスゲートが現れる。その先に延びる道路の主役は、車ではなく馬だった。10頭ほどの馬の群れが、道路を塞いでいる。無理に擦り抜けることもできなくはなかったが、私は群れの少し手前で原付を停め、少し様子を見ることにした。
 程なくして、1頭の馬がこちらに歩み寄ってくる。どうするのかと思えば、原付に体を擦り付けてくるではないか。やがて馬は私の脚にも身を寄せてくる。その毛並みはとても滑らかだった。まさかゼロ距離で馬と触れ合える(というか馬が寄ってくる)とは。
 そうこうしているうちに、全方向から馬が寄ってきて、体を擦り付けてくる。いったいこの馬たちには警戒心というものがないのだろうか。暢気なものだな、と思いながら、私には馬たちに恐怖心や猜疑心を植えつけるつもりなど一切なかった。この子たちが無邪気に一生を全うできますように――そう願うばかりだった。

 しばらくして、私はなんとかヨナグニウマの群れを脱出し、さらに西へと向かった。もう少し馬たちと戯れていたい気持ちもあったが、私がこの島を訪れた最大の理由は他にあった。かくして私は西崎(いりざき)――日本最西端の地に到達した。
 鳥肌が立ち続けていた。日本の端っこのうち、実は与那国島だけが真の端っこである。最西端以外(択捉島、南鳥島、沖ノ鳥島)は、一般人が踏み入れることは叶わないため、厳密には「日本本土最北端」などという表現となる。しかし日本最西端だけは至ってシンプルなのである。
 日本最西端の地を示すモニュメントの隣には灯台、その奥には極めてゆったりと弧を描く水平線が広がっていた。天気が良ければ台湾の島影が見えることもあるそうだが、今日は雲がかかっていた。理想的なサンセットはお目にかかれないだろうが、それでも私は眼前の光景に見入っていた。
 雲がゆったりと流れていく。雲は思ったよりも速く動いているが、普段はそれに気づくことはない。私たちは雲より速く歩いていて、立ち止まって空を見上げた者にしか雲の流れは見えない。なんて愛おしい当たり前なのだろう。日本で最も遅い夕日は、18:30に雲の向こうで沈んでいった。

 ゲストハウスに戻り、シャワーを浴びてから外に出る。人工的な光の少ない島では、星の眩しさに目が眩むほどだった。ゲストハウスの屋上にあるテラスに登り、椅子に座って星の瞬きを眺める。あまり星座に明るくない私だが、カシオペア座だけははっきりと見て取れた。
 漆黒の東シナ海を、時折遠雷が照らし出す。あの喧しい音が届かないゲストハウスの屋上で、私は動けなくなっていた。この島はどこまで幻に漸近していくのだろう。でも幻そのものではないから、この幻影らしきものが日常にも実在することを示唆してくれる。そうでなければ、私は危うく、この島から出られなくなるところだった。
 もう寝よう。私は立ち上がり、地上へと続く階段をゆっくりと下りた。

 翌朝、少しだけ雨が降っていた。

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