『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』がPOPであることについて
そもそもPOP、大衆性とはなんなのか。エンタメ好きな僕はよくそのことを考えてきました。反対語として考えているのはファインアートです。これは、「好きな人は好き、それでいい」という態度で、アーティスト側の意識としては、とにかく自分が表現することが一義であり、自由に受け取ってもらって構わない、というものです。
これは、表現する者と享受する者の間に発生する関係性をどう捉えるかの問題で、その考え方は両極ではなく、その間のどこかの地点に着地するのが現実だと思います。
POPというのは、大衆迎合主義、ポピュリズムとして解釈された場合、お客さんの望む商品を提供するという思想になります。しかし表現の分野では、それだけをやっていてはアーティストの欲求が満たされない場合もあるでしょう。肝要なのは、「売れたい、食えるようになりたい」というだけでは、見るに堪えない痛々しいものになるということです。
この辺り、表現者はどのように自らを納得させその行為を行うのか、そしてそれを見るオーディエンスは何を感じるのか、その営みはジャンルを超えて共通した、非常に興味深いコミュニケーションの有様であると思います。
そこでPOPです。この概念をどう定義したら腑に落ちるのか。日頃から、色々な言葉を当てはめて考えてきましたが、『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を聞くようになって、また新たな発見があったので、文章にしながら頭の中を整理しようと思いました。
このラジオ番組は、僕が命名するなら、まず「オジサンラジオ」です。パーソナリティーが中年以上の男性で、その人が生きてきた経験をトークに織り込んでくるタイプ。それで言えば在京民放AM各局の平日帯番組などは無条件に当てはまってしまいます。
でも「オジサンラジオ」であることだけが面白い条件にはなりません。嫌いな「オジサンラジオ」も沢山あって、懐古趣味が過ぎるもの、内輪受けや古色蒼然とした内容であるもの、そうした番組には惹かれません。
逆に言えば、僕がラジオ(だけではなくエンタメ全般)に求めているのは新鮮さ、斬新さ、今の空気を感じさせてくれる共時性です。そしてそれらが『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』にはあるのです。現役感、今っぽさ、生っぽさがあるのです。
佐久間さんは最新のエンタメにジャンル横断的に接しているし、それらを面白いと思う感性が全く衰えていない、若い人たちと互角にトークができる感受性を発揮しています。リスナーメールに若年層が多いのも頷けます。それに加えて人生経験の深さがある。昔のエンタメも体験として蓄えているし、そのメモリーは絶えずリフレッシュされて反射神経がいい。
ここでPOPの話になります。佐久間さんのトークから感じるのは、最先端の今、と、かつての経験値、というミクスチャーなのですが、その「経験値」が、日本がバブル経済だった頃の豊かさの匂いがするのです。
僕もこの時代をよく覚えていますが、これがどんなに「バブル」と言われようと、この浮足だった明るさは、本質的な人間の幸福と強く結びついていると思うのです。それは欲望そのままの姿であり、大きな意味で「消費する」「蕩尽する」ことに快楽を覚えるのは動かし難い感情だと思います。
消費することの快楽。これが僕の考える「POP」という概念の一つの要素なのだということを、『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』を聞いていて感じました。