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星野源『創造』のここがヤバイというのがやっとわかった

星野源さんの新曲『創造』を初めて聴いたのは、2月16日の『オールナイトニッポン』でした。第一印象は全然ピンとこなかったです。

まず出だしが英語詞。BPMは早いしヴォーカルは引っ込んだままだし、創造というより騒々しくて違和感ありあり。音量も音域もレンジが狭くザラついていて、歌詞も歌メロも遠くて無機質に思えてしまいました。でも、僕にはわからない謎めいた気配がしていて、ずっと気になっていました。

その後の星野さんの発言を聞いても釈然とせず、謎は謎のままだったのですが、つい最近、YouTubeで「初見で演奏してみた」動画を見たことで、ようやくわかってきたことがありました。

この二人のミュージシャンのチャレンジが面白いのは、初見でも棒立ちにはならずにとりあえず演奏をする、その上で撃沈していくところです。解説も面白いし、何よりミスったときの表情が豊かで楽しい。

ここでようやく気づきました。この曲の最大の仕掛けは、細部から全体に至るまで、横スクロールアクションゲームの表現の構成をそっくりそのまま採用しているところなのだと。そりゃそうだ、初めてやるゲームで最初からクリアできるわけないよ。ステージが進むほど難しくなるし。

この全体像が見えたら、視界が一気にクリアになりました。考えれば考えるほどに、それがいかに画期的で挑戦的、かつ自然な創作欲求から生まれた無理のない発想だったかと思います。

まずはこちら、「スーパーマリオブラザーズ35周年 TVCM」

これについて星野さんはラジオでこう語っています。

「去年の秋にCMで流れてたのはまず一回その尺で作って、その時にはそこまでしかなかったんです。その前にマリオセッションっていうのを自分でやりまして、マリオの中で好きな曲がいっぱいあって、それでスーパーマリオランドの曲もすごい好きなので、メンバーに集まってもらってカバーして、体の中にマリオの音を入れていくっていう作業をずっとした日がありました」(2月16日ANN)

このCMの時点でテンポ感とヴォーカル処理は確立しています。音作りとしては上述のマリオBGMとの親和性が感じ取れます。

ここから広げていく過程については、以下の発言が参考になりそうです。

「タイアップだったりそういうものって5年とか10年経ったりすると、タイアップ感って消えていくんですよ。その記憶って薄れていくんで、当たり前だけど曲の強靭さみたいなものってタイアップ先に依存しちゃいけないと思っているので、音として歌詞として、星野源の歌として強いものをしっかり作りたいなと思っておりました。

今回、AメロとかBメロとかサビとかも含めると多分Fメロくらいまであるんですよ。いつもだったらもっとシンプルに歌いやすいようにとか考えたりするんだけど、リミッター全部取っ払ってとにかく好きに作るっていう感じだったんで」(2月23日ANN)

これはあくまで僕の想像ですが、どこかの時点で、この曲全体の構成を、マリオのゲームに模倣させることはできないか、というアイディアが生まれたのではないでしょうか。CMはあくまでワンシーンの表現ですが、どうせならこのままどんどんステージを繋げていって最後まで突っ走ってしまえ!というわけです。

映画でもなんでも、テーマ曲というものは、元となる題材から抽象的な感情の部分を抽出し、そこを手掛かりに本編とうまく共鳴させる意図で作るものだと思います。しかしそこは星野源、ドラえもんのテーマ曲のタイトルが『ドラえもん』ですから、クリエイターとしての発想に独自のものがありそうです。

それはつまり自身を音楽家の枠に留め置かないということで、彼の作品は、時に枠の内側からはみ出したい、はみ出ようとする力があるように思います。『アイデア』や『うちで踊ろう』からそれを感じました。

言い換えれば、作品を超えた位置に視点を置いてみるということで、このメタ的な資質は例えば映画人や小説家なら普通に兼ね備えているものです。ところが音楽家は、制作や演奏による表現が自身の視点位置と地続きで成立する、むしろ音楽ジャンルによっては、肉声をそのまま吐き出す生身の姿が魅力だったりします。

尤も、絶えず客前に出る人気者のフロントマンであれば、ステージ上の自分というキャラを別途作り上げて演じるということもあるでしょう。

そう、演じるということが、メタ視点を持つ動機になるのです。星野さんがメタ的発想をする一つの理由がそこにあるのかな、と思いました。

ステージクリアしたツワモノたち、僕が好きなのはこの方々。