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地球星人 村田沙耶香 感想

私たちはものを考えるとき、頭の中で言語を使う。言葉を思い浮かべ、文章を組み立てては壊しながら、自分の考えを作り上げていく。このときに使う言葉を内的言語といい、このように考えることを言語的思考という。

一方で非言語的思考というものもあり、喜怒哀楽のような感情や、その時の気分、脳裏に浮かぶビジュアルなイメージ、経験からくる直感力といったものがそれにあたる。

私が本を読むときには、このようなレイヤー構造を規定して言語的思考を行なっている。

(読者=私(作者=作品(物語(登場人物(主人公(主人公の内面心理))))))

この構造を前提にしているから、私は物語に没頭することができ、主人公に共感し、そうして非言語的思考であるビジュアルを思い浮かべ、感情が揺さぶられたりするのだ。

この小説の主人公、奈月は、母親から身体的虐待を、塾の講師からは性的虐待を受けていて、そのような極限状態におかれた人間は逃避メカニズムを働かせる。具体的には、「これは本当ではない」と思い込むような現状否認であるとか、自分で作り出した幻想の別世界に逃げ込んだりとか、感情を鈍化させ心を閉ざす、といったことである。

奈月が作り上げたポハピピンポボピア星という幻想世界では、現実を地球星人の世界と見做し、そこは人間を作る工場であり、その世界の道具となった人間は、身体を部品として使用し、子供を製造する、というものであった。

これは奈月の言語的思考から生み出された妄想である。それでは、彼女の非言語的思考はどのように現れるのだろうか?これは、従兄弟であり恋人の由宇とのセックスである。空想における非言語的思考がもたらす感情を想像した彼女は、それをどうしても行わなくてはならない、と思うに至る。このような、思い込みによる極端な行動、というエピソードは、人物を変え形を変えて、この先にも何回か現れる。

このような逃避メカニズムによる言語的、非言語的思考の実態を、この作品は一切の客観的な解説を交えることなく、奈月の主観視点で徹頭徹尾に貫いて描写している。

成人してからの物語では、奈月は、自分と同じような境遇を持つ理解者、智臣と巡りあうことができ、奇妙ながらもうまく彼らなりの人生を生きていけそうに見えていた。秋級の祖父母の家での暮らしも、自然環境が心の癒しになっているように思えたのだが、徐々に雲行きが怪しくなる。

由宇と再会し、この三者の相互理解が進んでいくにつれ、彼らは奈月の妄想世界に取り込まれて覚醒していく流れになるのだ。智臣は、由宇は、独立した人格を持つ他者なのか?奈月の世界観に取り込まれてしまったのか、もしくは存在自体が奈月の頭の中だけの住人、ということなのか?

あの終盤の展開を知ってしまった今、どこまでが現実でどこからが妄想なのか、その境界線がわからなくなってきた。再び本を開いて活字に触れれば、冷静な目で見られるのかもしれないが、読後感だけを引き摺ったこの小説の印象はこんな感じにぐにゃっと変化してしまった。

(読者=私(奈月の内面心理))

登場人物も舞台設定もなにもかも、奈月の脳内と溶け合って、それが直接、こちらに差し出された感じ。物語も作者も、その形が溶けてなくなってしまった。

私たちが言語的思考をしているということは、言語によって思考が記述できるということだ。「奈月」という架空の人物の思考を記述したこれは一体、なんなのだろう。

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