透明な夜の香り/赤い月の香り 千早茜 感想
『しろがねの葉』の次にこの本を手に取り、二作を続けて読んだ。ストーリーも文体も気に入ったが、魅せられたのは主人公の小川朔の人物像だ。常人離れした嗅覚の持ち主が、その能力だけを発揮して問題を解決する話ではなく、むしろ知れば知るほど彼の心の内面が謎を帯びてくる。
小川朔は、匂いを通じて相手の人物の健康状態や感情の起伏を読み取れる。それだけではなく、彼は、匂いがもたらす情報の意味に解釈を加えて、その人物の行動をも言い当ててしまう。そのように、極めて優れた嗅覚を持つのみならず、頭脳が明晰であり、学問的な知識も豊富に蓄えているという人物である。
これだけの能力を持ちながら、人間の心への探究心を持ち続けていて、その人物の行動に伴う感情がわからない時には、直接相手に問うこともする。「知りたかったから」と彼はいう。
このような複雑な人間性の内面を想像してみる。まず、この能力を持つ他者が存在しないということからくる孤独感がある。そして、臭いは隠すことができないので、全てを見通すことができるという全能感もあるだろう。相手のことがわかってしまう反面、自分のことはわかってもらえないという、極めて非対称な人間関係しか構築することができない(そのジレンマの外にいるのが新城と源さんと、若宮一香である)。
この非対称性を前提としながら他者と交流するために、彼は現実的な調香師という職業を選択している。その分野において彼は最高峰で唯一無二の存在であるが、その目的は自己表現ではなく社会との繋がりを持つことだから、納得できる仕事は素直に受けている。
依頼された仕事は表面的には事務的に処理しているようだが、彼の能力からして、顧客と対面した時の相手の様子もすぐに見抜いてしまう。これは心理カウンセラーのような仕事とも共通するが、相手を知ることでエンパシーが発生し、自分を見失なわないために精神を制御する必要にも駆られるだろう。そのことは、顧客との距離感の描写に見受けられる。
彼は「嘘」を嫌悪している。それは、嘘そのものが不快に「匂う」ことに加えて、このような解釈もできる。相手の立場に立ってみよう。小川朔の前に立ったら自分の全てが見透かされる、というのは恐怖である。その恐怖に対処する足掻きとして、せめて言葉の上では自分に都合のよい嘘をついてみせ、本心を隠そうともするだろう。
逆に言えば、嘘をつかれているということは、小川朔にとっては、自分は恐れられている、普通の人間として見てもらっていない、異形の化け物のように思われているということだ。嘘がない人間を目の前にすると、彼は彼のアイデンティティを傷つけられずに済む。
作品世界の幻想的な演出も相まって、主人公自身が最大のミステリーとして中心に存在し、しかし手を伸ばしても届かない場所にあって、強さと儚さを同時に感じさせる。物語中に繰り返し描写される植物の静謐さと雄弁さと混じり合って、独特の深い没入感をもたらしている。この作品に熱狂的なファンがいるのもよくわかるし、私も続編を読んでみたいと思う。
小川哲氏のラジオ番組に千早茜氏がゲストで出ていた。
Street Fiction by SATOSHI OGAWA
第168回直木賞受賞者対談 2023年6月4日、11日