初めて恋をした記憶

今は昔の話である。


潰れかけのコンカフェに通っていたことがある。

連日真っ昼間から営業していても、客は大抵一桁。
キャストは良くて2人で、ワンオペのことも多々あった。
聞けば人気キャストが去りし後、少しずつ客足は遠のき、系列の他店にほとんどのキャストが移籍。
既に閉店することが決まっていて、人気の翳った僅かな卒業間際のキャストが回しているだけのお店。

そんなコンカフェに通っていたことがある。
いや、当時はまだメイド喫茶と呼ばれていただろう。

その頃まだ学生だった俺は、表通りの人並みが少なくなった夜の時間をそこで過ごすことが多かった。
もはやオーナーすら興味をなくした、アルバイト数人でやっと回る程度のメイド喫茶に、あの頃の俺は居場所を見出していた。



ナツキというキャストの話をしよう。


ナツキは典型的な大学生のキャストで、歳は当時の俺より2つ下だった。
言い方は悪いが、可愛いとか綺麗とか、そういう類のキャストではなかった。
畑が違うものの俺が引くくらいのオタクで、いつもバカみたいな話ばかりして笑わせてくれて、ちょっと抜けてるけど真面目なヤツで、そしていつも優しかった。

当時の俺はナツキとすぐ仲良くなった。
お互い同じ感じがしたのだと思う。
あんまり気を使うこともなくて、良い意味でお互いラフに会話することができた。

ナツキは良い奴が過ぎるせいもあるし、そんなに外見が際立つキャストでも無かったせいか、客からの扱いは専ら汚れ役だった。
大して面白くもねえイジリや、「面白いことをやれ」という圧が常にあって、まあ仕方ないとは言えその扱われ方は見ていてそんなに気持ちが良いものではなかった。
おそらくその中にはナツキを好きな客も居ただろうが、あまり褒められた接し方で無いのは俺の目から見ても明らかだった。

ただ、当の本人はあまり気にはしていない様子だった。
その頃の俺は今以上に他人を察したり空気を読むことも未熟で、遠回しに「大丈夫?」みたいなことを振るが、ナツキはいつも「変わってるけど良い人ばかりだからさー」みたいに受け流して終わってしまうことが多かった。


俺とナツキの関係に転機が訪れたのは店も末期を迎えた頃である。

その頃は本当に店の状況も悪く、ただでさえ少ないキャストが更に減り始めて、ナツキは毎日のようにワンオペで店を回すことが多くなっていた。
もちろんそれに比例して客足も遠のいていき、俺とナツキが2人きりで過ごす時間は増えていった。

当たり前と言えば当たり前だが、その頃にはナツキと俺は何となくお互いを意識するようになっていた。
お互いの予定を併せてシフトを出してしたし、わりとプライベートなことも話すことが増えていた。
その中で、ナツキが店の卒業から程なくして遠い土地に就職することも知った。



ある日、俺はいつもより店に向かうのが遅くなってしまったことがあった。
たぶん大した理由ではなかったのだが、とかく俺はいつもよりだいぶ遅れて店の前を通りかかった。

店は表通りに面したビルの一階にあって、コンカフェのわりにガラス張りで中が覗きやすく、その日も案の定カウンターで一人ぼんやりと過ごしているナツキの姿が見えた。

「よお。遅くなってわりいな」

扉を開けて俺は中に入り込む。

「……うん。遅い」

ナツキはスローな動きで俺を見ると、水とアイスコーヒーを用意して、俺のいつも座る席の前に居座った。
カウンターに腰掛けた俺は、何だかいつもと様子の違うナツキの態度が引っかかりながらも、水を少し飲んでナツキを見やる。
珍しく、ナツキは伏し目がちで俺と目を合わせようとしなかった。

「あー……なんかごめん」

遅くなった言い訳を考えようとアイスコーヒーを手にした矢先だった。

「ちょっとだけ、ごめんね」

言い終わるまでもなく、ナツキは俺の手をとり、自分の両手でぎゅっと握りしめた。

「……ごめん。ちょっとだけだから。ごめんね」

そう言って、ナツキは静かに泣き出した。


キャストとしてしか見ることの出来ていなかった女の子を、自分より歳下の女の子と感じたのは、たぶんその時が初めてだった。

静かに、だけど大粒の涙を流す彼女を見て、俺は自分がこういう時に何て言葉をかけるべきかシミュレーションしてこなかったことを呪った。
いつも通りバカみたいな話をするための話題はたくさん考えきたのだが。

「あーあ。やっちゃったなぁ……」

ひとしきり泣いた後、ナツキはボロボロになったメイクを拭いて力なく俺に笑った。

「引いた?」

「いや……別に」

「引いとるやん。引いとるだろ」

「知るか。なら泣くなよ」

「……うん。ごめん」

終始しおらしく振る舞うナツキに俺は調子が狂っていた。
本当は優しい言葉の一つでもかけるのがモテる男なんだろうが、その頃の俺は生憎そういった技術に関しては素人もいいところだった。

最後に零れた涙をひとすくいすると、ナツキは「私も座る」と言って俺の隣の椅子に座った。

「……怖かったの」

そう一言告げて、ナツキは深く溜め息をついた。

「最近ね、もう昔みたいな良い常連さんはほとんど来ないから。私目当てなんて変な人ばっかりでさ、1人で相手してると疲れちゃう」

「……悪かったな、変な奴で」

「え?何?ごろーって私好きだったっけ?」

「うるせえよ。ほっとけ」

ナツキがいつものように悪戯っぽく微笑んだのを見て、俺は内心安堵していた。

「……夜にね、一人でお店に居るのって結構怖いんだよ?知ってた?」

「まあ、わからなくはない」

「知ってるお客さんと一緒の時も、怖い時はあるよ」

「……さすがに襲わねーだろ」

「ちがうちがう。そーゆーのじゃなくてさ。私一人でちゃんと仕事できてるかとか、何か嫌な思いさせてないかとか、そーゆーの」

「考えすぎだろ。どうせお前と喋れて楽しい!くらいにしか思ってねえよ」

「ふーん。じゃあごろーは楽しいんだ」

「……楽しくなきゃ来ねえよ」

「今日遅刻したじゃん。私泣かせたし」

「毎度時間までは決めてねえし、お前が勝手に泣いたんだろ」

「うわコイツ最低」

俺の腕を肘で小突き、ナツキはわざとらしくそっぽを向いた。
一時間保たすにはやや心許ない容量のアイスコーヒーをストローで啜り、俺は次にナツキにかける言葉を探していた。

「……でもさ、ごろーが来てくれて嬉しかったんだよ」

そっぽを向いたままナツキは言葉を続ける。

「もうすぐ来るよねって思ってても、5分経ったらひょっとしたら今日は来ないかもって……別に約束はしてないし、ごろーはお客さんだし、でもそういうのはいつも守ってくれるって思ってて……」

言いながら、またナツキの声が上ずり始める。

「嬉しかった。安心したんだよ……わたし」

そしてナツキはまた静かに泣き始めた。

俺はと言えば、傍で居心地悪くアイスコーヒーを啜るくらいのことしか出来なかったが、隣に居る知り合いとも友達とも言い難い存在の彼女について思いを巡らしていた。
たぶんもうこの時には俺はナツキが好きだったとは思うんだが、その時目の前にいるナツキが自分の知っているナツキではない誰かであることに動揺していたんだと思う。
少なくともいつも店で面を合わせるナツキは、冗談でも泣くようなヤツではなかったし、俺相手にこんなしみったれた話をするようなガラでもなかった。

「……ごめん」

とりとめのない思考の中で、ようやく俺が捻り出したのはなんとまあつまらない言葉だった。


「……そっか。いいよ、私こそごめんね。なんかこんな話したかったわけじゃないのに」

その時赤くなった瞼を拭いて無理矢理に笑った顔を、俺は未だに覚えている。

ナツキの様子がおかしかったのは後にも先にもこの時だけだった。



そして結局、俺はナツキと付き合ような仲には至らなかった。
それは店が当初の予定より早く潰れてしまったせいもあるし、当時の俺はキャストというものにまだまだ理想や幻想を押し付けていたせいもあるのかもしれない。

たぶん俺はナツキのことが好きだった。
ナツキも俺のことを好きだったかもしれない。

それももう確かめる術はない。
むしろあやふやなままだからこそ、今も記憶に綺麗に残っていると思う。

そんな昔の話である。



たまの休日、某所の大通りを歩くと未だにあの店の外観は残っている。
もちろんもう名残らしい名残もほとんどないんだが、俺は見かける度にガラス張りの扉の先に座っていたナツキのことを思い出す。

『ごめんな。約束、守れなくてごめん』

あの時言えなかった言葉を今も思い出すのだ。

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