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シン・エヴァンゲリオンはクサいけどおおきなカブだった(ネタバレ注意)


テレビシリーズはかなり前にザッと観ただけでほとんど理解せず、旧劇場版は未見、序と破は映画館で観たけど、Qは劇場含めて未見だったので(シンの予習のために)つい先日アマプラで初見、というエヴァファンを名乗ったら怒られそうなわたしが観た感想です。つれづれなる備忘録です(随時、加筆していきます)。観劇後、いくつかのネタバレ記事などを参照していますが、理解はかなり不足しているのでそこはご了承ください。もちろんネタバレを含みます。


ラストはハッピーエンドなのか

ハッピーエンドだとは思います。

でも、シンジとマリだけがエヴァのない新世界ができるまでのできごとを知っている状況らしく、シンジという人間をつくってくれたレイ、カヲル、アスカはシンジとの関わりをもっていない(彼らが彼岸のホームにおり線路により此岸と断絶されていることが暗喩らしい)とすると、こんなに哀しいことはないと思います(それどころか、救済されたはずの加持パパ、ケンスケ、トウジ、ヒカリたち、および生き残ったはずのヴィレの面々も赤の他人ては?)。

また、シンジの両親やミサトも不在(記憶の中だけの存在になった)とすると、自分は相手を知っているのに相手は自分を知らないという非対称な世界で生きるシンジは絶望的な孤独であり、それってハッピー?という気がします。その人がいないことよりも、その人が自分のことを認識してくれないことのほうがよっぽどつらいですから。もちろん、だからこそ、自分を唯一知ることで絶望的な孤独から救い出してくれた(「どこにいても必ず迎えに行く」)マリの大切さが浮かび上がるわけですが…。

このように、成長して大人になったシンジが過去の一切合切やら新世界で再度経験する「親しい人との別れ」の苛酷さやらをすべて引き受けたうえでのハッピーエンドではないでしょうか。

そして、マリの手で外されるチョーカーやシン・シンジの声優が緒方恵美さんでないことが、エヴァファンである視聴者が四半世紀にもわたるエヴァという呪縛から解放されるべき、およびエヴァというフィクションから卒業すべきという庵野監督からのメッセージだという指摘のとおり、エヴァファンも「親しい作品との別れ」を引き受けながらも、ハッピーエンドに向かうのだろうと思います。

おまじないの効果はいつ現れるだろうか

庵野監督は次世代の人にエヴァという作品をバトンタッチするために、総括のための新劇場版およびシン・エヴァンゲリオンを制作したと言われています。個人的には、攻殻機動隊のように、原作、押井GIS、神山SAC、黄瀬ARISEとそれぞれの(強烈な)個性を保ちながら相互に補完的な作品群になっていくといいなと思っており、そこではファンの狂信的な狭量さこそが敵になるのではないでしょうか。

全編を通したクドさ、クサさ

今回のエヴァンゲリオンは、大してエヴァを理解していないわたしでもストーリーがそれなりにわかるくらいに説明的なセリフが多く、クドいです。ラノベ原作のアニメでキャラの登場時にご丁寧にフルネームで呼びかけるシーンばかりを見せられているような気恥ずかしさが続く感じで、もはや説明というより公式解説本みたいな勢いです。難解さがアイデンティティにおもえたエヴァらしからぬ内容です。

それはひとえに、次世代の礎となる庵野エヴァには、それまでの作品が受けていた誤解や曖昧さを残すべきではなく、ひとつの完成された作品としてケジメをつけるべきだという意志によるもののように感じました。つまり、自分がそれまで長いあいだあちこちに蒔いてきた種が成長した果実をきちんと刈り取ったわけです(伏線およびその回収というのはまさに種蒔きと収穫のようなもので、セットでなされなければいけませんから)。その意味で、シン・エヴァンゲリオンはこれまでになくおおきなかぶになったと思います。

さらにまた、登場人物たちの言うことなすことすべてがクサい=ストレートで直接的(とくにヒカリのそれ)であるのも、誤解の余地をできるだけ少なくしようという意図に思えます。

結果として、わかりやすくなった今回の劇場版4部作は、それまでの作品を画面に穴が空くほど観てきたファンだけのものではなく、より一般の人々にも受容されるような真のエンターテインメントだと思います(もちろん、表現者としての庵野監督の遊び心やサービス精神によって実現されたところもあります)。

なお、わたしも誤解のないように言っておくと、聞いてて恥ずかしいけど観客を置いてけぼりにしないためにもクドさは必要だったし、聞いてて恥ずかしいけど胸アツ展開をより胸アツにするためにもクサさは大切だったと思います。

ゲンドウの願いは荒唐無稽といえるのだろうか

つまるところ、エヴァの物語とは事故で亡くしたユイに会いたいゲンドウの物語だったととらえています。終盤で出てくる巨大綾波にゾッとした人も多いかと思うんですが、じゃあ、他者を含む世界をすべて犠牲にしてでもユイに会おうとするゲンドウって、ヘンだとか迷惑だとかヤバいだとかいって切り捨てられるものなんでしょうか。

未曾有の大震災を同時代人として見聞したいまのわたしは、ほんのちょっとだけ、ゲンドウの気持ちが想像できる気がします。地震や津波で大切な人を亡くした人々の話に触れるたびに、彼らが大切な人をいまでもどんなに想っているかを知ります。帰らない遺骨を探して別人の遺骨の特徴を聞きつけ何度も警察署に足を運ぶ人、津波で妻子を喪ったため後を追って自らの人生に幕を下ろしてしまった人、そういう人々の話を聞くにつけ、ゲンドウの振る舞いがただのフィクションと言えなくなるような、そんな気持ちになります。

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