『孤独』と友達になる方法/ヱリさん作「大阪城は五センチ」(#創作大賞感想)
ヱリさんの作品を、すべて読んでいるわけではない。
だから、断言はできないのだけれど、彼女の作品には「孤独」への向き合い方が記されているように感じる。
「大阪城は五センチ」も、そうした作品のひとつだと私は思っている。
私がたまたま読んだヱリさんの作品がそうである、ということなのかもしれない。
あくまでも「個人の感想」として記すほかはないのだけれど。
ひとは誰もひとり、という言葉がある。
一方で、ひとはひとりではない、という言葉もある。
不思議なことに私たちは、どちらの表現も違和感なく受け止めることができる。
前者はたとえば、物理的な意味合いでは疑いようもなくその通りで、ひとはみな一個の人間として生まれ、個別に死の瞬間を迎えていく。
後者は主に、精神的な部分の繋がりなどをクローズアップする際に使われることが多いのではないか。
家族、友人、サポーター……そうした、支えあう関係性については、ひとりではない、と言ってもいいだろう。
だがそうした意味合いとは種類の違う、哲学的な「孤独」がヱリさんの中に存在しているのではないか、と私は妄想している。
それは「ひとは自らの思考の中から出ることはできない」という厳粛な事実についてである。
ひとは、自分以外の人間が何を思い、どう感じているかを真に体感することはできない。
それらの感覚は、自らの限られた経験をもとに、想像の中で再構成して推し量ることしかできないものなのである。
そのことに、「孤独」であることに気づいた時に、どうするか。
なすすべなく絶望して受け入れる以外に、私は方法を知らない。
だが、「大阪城は五センチ」を読むうちに、「孤独」からは脱することができなくても「孤独感」からは解放される術があるのではないかと感じることができた。
すなわち、「ひとは誰もひとり」という概念を、自分以外の人間も共有しているはずと思うことによって、緩和されるのではないか。
「ひとは誰もひとり」と認識しているのは「私だけではない」のではないか。
「大阪城は五センチ」の作中人物、由鶴と宇治には、その人物描写の中にどこかしら「諦念」のようなものが見える。
彼らはともに、自分の価値評価を他人に委ねない。
むしろ自らを無意識的に過小評価して、身を引いていくようにも読み取れる。
物語は一般的な受け止めとしては、ハッピーエンドではない。
だがそれでも、人は生きていく。
想像の檻の中から出られないと知っていても、ひとを想うことをやめることはできない。
その欺瞞を抱えて、生きていく。
その寂しさを友に、過ごしていく。
人の混みあう喫茶店の片隅で、誰にも気にされぬままに思索にふける。
そんな風にこの作品を読みたいと思った。
……という硬めの感想を書いてしまいましたw
みなさんもぜひ、押し寄せる余韻に溺れてください!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?