『 』を売る男2
そこはいかにも奇妙な店だった。物を売らなくてもマッサージや整髪などサービスを売っている店はそこらじゅうにあるが、この店はそんか雰囲気はない。
しかしひとり、またひとりと客がやってきて店主とひとつふたつ話すと金を払って去っていく。この店は何なんだろうか。気が付けば私の好奇心に操られた身体が店主の前に移動していた。
いらっしゃいませ。あなたはお客さんには見えませんね。何の御用でしょう。
やぁ、君は新入りだね。こんな裏通りの奥にしては店はずいぶん繁盛しているようだ。一体何を売っているのか教えてくれないか。
ひやかしはどこに行ってもいい顔はされないが、店主は気にすることなく返答する。
ええ、店ははじめたばかりです。私の売り物はそこらじゅうにありますよ。形はありませんが。
ふむ、私には何かあるようには見えないが…
気を悪くする言葉を言ってしまったかもしれないと思ったが、店主は変わらない調子で返答する。
そう仰る方が殆どですな。私はそうですね、nullとでも言っておきましょうか。それを売っているのです。
null、私は頭はあまりよくないが意味は何となくわかる。存在しないことだ。──数学の世界では0は何もないわけではなく、"0"が存在しているとかだったか──
とにかく店主はその"何もない"を売っているようだ。普通の商店では考えられない話だがマーケットでは有り得なくはない。しかし、そのような店が繁盛するとは何ともおかしな話じゃないか。
疑問が顔に出ていたのだろう、店主はしっかり私に向き直った。ぼろをまとっているにしては不釣り合いな力強い眼差しが私を捉える。
旦那、ここだけの話ですがね、私もなぜこれが売れるのかわからないんですよ
店主ははじめて笑った。人好きのする気持ちのよい笑顔だが、何か違和感を覚えた。
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