『 』を売る男8
声を掛けてきた男は、かっちりとしたスーツを身に纏い、はじめて会った姿に比べて落ち着いた風貌に変わっていたが、一番最初にnullを売っていたあの店主で間違いなかった。
また会えるとは思ってませんでした。その、あれから色々と騒ぎになってましたからね。
少し大人しくしてたんですよ、と男は笑った。聞きたい事が沢山あったので男をバーに誘う。断られると思ったが意外にも男は着いてきた。
やあ、ずいぶん久しぶりだね。君の売ったnullはずいぶん有名になったじゃないか。ところによると警察沙汰にもなっている店もあるみたいだ。君は捕まらなかったのかい?
ビールを酌み交わしながら聞く。
ええ、正直ここまでことが大きくなるとは思ってませんでしたが、おおむね売上は取れたので危なくなる前に"店じまい"しましてね。いやあ、ずいぶん稼がせて貰った。
何でもない風に話す男に我慢出来ず、思わず声を荒くなる。
君は、詐欺まがいの事をした自覚はないのか?儲け話の幻想で仕事を辞めた者もいたそうじゃないか。良心は痛まないのか?
男は相変わらずの笑顔を貼りつけて答えた。
前にも言ったでしょう。確かに私はnullを売ってはいましたよ。それを話題作りに使ったり、金儲けに使ったのは私ではない。そりゃ、使用料は頂戴しましたがね。それはロイヤリティみたいなものです。買われた商品のその先のことまではわかりかねますな。
でも君は、わかっていたんじゃないか。こういう事態に成りうると。
そりゃあ、わからなかったと言ったら嘘になりますが──まあもういいでしょう。あなたのような正義の人が活躍し、nullは文字通り無くなったのですから。あの人達もさぞかし気持ちがよかったでしょう。正義の刃で"愚かな"悪を討てたのですから───
これ以上問い詰めても効果はないだろう。男にとっては罪悪感どころか完全に他人事のようだった。
それからは当たり障りのない世間話が暫く続いた。
ああそうだ──
三杯目のビールが終わる頃、男が呟いた。
実はあの騒動、nullが詐欺だと糾弾されるようになってからですね、その時が一番nullが売れたようですよ。あれが起こる前はあの商売は下火になっていたみたいでね、あなた達みたいな"正義の人"が最後の売上をくれたようなものですよ。
私は目を白黒させた。きっと凄い顔をしていたに違いがない。そんなことが──
そんな私に目もくれず、男はバーカウンターの酒瓶をぼんやり眺めながら更に呟いた。
結局のところ、ああいった"商売"は、そうですね、日本茶と同じようなものなのです。一番最初が一番うまく、二杯、三杯目まではまだ飲める。それ以降はとても飲めたものではないのです。
言い終わるとグラスに残ったビールをあおり、男は席を立った。
私は慌てて男に声をかける。
待ってくれ、君は次はどうするつもりなんだ。これで満足するわけではないだろう。次は何を売るつもりなのか教えてくれないか。
支払いを済ませ、バーの出口で男はあの笑顔で答える。
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