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パラハラクソン・ト・ノミスマ詩幣序説


7月3日

7月3日(水)、私は詩創造者として9時半から20時まで、昼を除いて鴨江アートセンターで開催されていた詩幣にほぼ在廊していた。

そんな詩幣で、一万円紙幣百枚の札束について、あるいは、それを撒くことや撒かれていることに対して「いやらしい」「下品」「下衆」などということばが出た。いずれも価値あるとされるものへ不適切な扱いがされていることへの反応であり、なかには反発に近いことばもあった。反発は理解だ。

紙幣へのフェティシズム

ここでもういちど考えてみてほしい。福沢諭吉の一万円紙幣でなく、何か複雑な模様が印刷されただけの和紙なら、おそらく人は何の躊躇もなく手にとって、頼まれれば撒いて、眺めただろう。そのことには容易に同意していただけると思う。

ならば一万円紙幣は何か複雑な模様が印刷されただけの和紙に過ぎないのだから、上記の「いやらしい」「下品」「下衆」といった反応は、ブラジャーや下着や黒ストッキングといった繊維でしかないものに何らかのいやらしい性的な価値を見出して興奮するのと同じフェティシズム(物神崇拝)に由来する。

ちなみに、詩創造者の吉田朝麻さんは詩幣会場で、宗教的な幣帛と貨幣の逆転現象について言及しフェティシズムの本質を突いた。紙幣に価値を見出して交換するのはフェティシズムという集団宗教的な行為なのである。

本筋に戻る。つまり展示そのものが「いやらしい」「下品」「下衆」なのではなく、一万円紙幣百枚の扱いへの鑑賞者のうちにある受けとめ方が「いやらしい」「下品」「下衆」なのであり、その受けとめ方は他者との関係の上に成り立っている強固な幻想なのだ。

つじむらゆうじ(敬称略)

浜松のディオゲネス

ΠΑΡΑΧΑΡΑΞΟΝ ΤΟ ΝΟΜΙΣΜΑ

上のギリシャ語はパラハラクソン・ト・ノミスマと読む。意味は「通貨=慣習を変造せよ」だ。真偽は不明だがシノペ市で通貨を変造して追放された哲学者ディオゲネスのテーゼとも、ディオゲネスが受けた神託ともされる。確かに、慣習とは他者との関係から共同体がフェティシズムを介してつくりあげる幻想であり、通貨=紙幣へのフェティシズムも慣習と言える。

鑑賞者に一万円紙幣の札束を撒かせ、詩幣を密造させ、鑑賞者が持つ紙幣への価値を混乱させるインスタレーション展示「詩幣」はまさにこのパラハラクソン・ト・ノミスマを促す展示であり、詩幣のつじむらゆうじは現代の、浜松のディオゲネスと言える。なので、つじむらゆうじはやがてシノペのディオゲネスのように、追放されるだろう。そして、世界市民になる。

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