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『狐晴明九尾狩』感想&あれこれ考察(ネタバレ含みますので、観劇後にお読みいただけたら嬉しいです)

9月に始まった劇団☆新感線41周年興行秋公演いのうえ歌舞伎『狐晴明九尾狩』。
どうにかこうにか…無事に東京千秋楽、大阪初日を迎え、そして早くも…いよいよ大阪大千穐楽へのカウントダウンが始まっています。一度もストップせずにここまで無事に走って来れたことにも改めて感謝ですね。

大好きな新感線で、大好きな中村倫也さん主演、しかも平安時代、安倍晴明!もう通わない理由がないですよね…!

東京は現地9回、ライブビューイング2回鑑賞済み。
大阪は3回鑑賞済み。あと2回参戦予定。(11月4日現在)
(本当は…もっともっと赤坂には通いたかったけれど…仕事と休みと日常生活と…自分の体力的に…これでもぐぐっと我慢してセーブしました…笑)

さっすが中島かずきさん脚本の真骨頂…!と唸らせられる深い人間ドラマ(今回は人以外に妖もたくさんいるけどね…笑)、友情、正義、絆…少年ジャンプ的なスカッとする痛快さ、テンポも非常に良く物語が進んでいくので、休憩込み3時間が本当にあっという間です。
(あ、倫也さんの魅力はここではあえて割愛させて頂きます…もうキリがなくなるので…笑)
(あと特に…第二幕でメインキャストがずらりと総出で同じ方向を見ちゃったりしてエモい音楽がかかる感じは新感線の代名詞ともいえる“髑髏城の七人”ぽくて…!その真ん中に倫也さんが立っていることが嬉しくって…いつも感極まってしまう…!)

観劇回数を重ねれば重ねるほど解釈の広がりだったり、観る人によって様々に考えたり想像できるようなあえての余白のとり方の絶妙さ。しかもその綿密で計算し尽くされた脚本をもとにいのうえさんマジックで見事に物語世界に、登場人物に…活き活きとした命が吹き込まれ、役者さん達との化学反応によって素晴らしい世界観が完成されています。これはもう観れば観るほどに中毒になっちゃいますね〜笑

さてさて…
(ここからしっかりネタバレあります〜!)
(中島さんの戯曲本の内容にもちょいちょい触れていきますので、どうかご注意を…!)
(いろいろ勝手なことを言ってますが、あくまで個人の勝手な解釈なので…あ、こんな見方もあるのね〜とお気軽に捉えて頂けたら嬉しいです!)

私が2回目を鑑賞してはっとして、帰宅して慌てて戯曲本を読んで納得したのは…

第一幕。
利風(向井理さん)から“頼んだぞ”と言われた晴明(中村倫也さん)が利風に対して返す“及ばずながらな。”という台詞。
※現在、回想シーンと2回出てきます。
※そもそも“及ばずながら”は、自分を下げる意味の謙遜の言葉という前提で考えていきます。

1回目(現代パート)と2回目(過去パート)で、晴明が口にする“及ばずながらな。”に対する利風の答え方、リアクションが異なることによって、晴明は、現在の利風がオリジナルの利風ではなく、九尾の狐にのっとられている状態であることを確信したんだろうなと。
(というか、そもそも…1回目の現代パートは、利風が九尾の狐化してることを再会した瞬間から直感的に悟っている晴明が、それを確信へと変えるためために、あえて、わざと…過去パートと同じ言葉を使って利風を試したんだろうなと思うと…もうっ最高にゾクゾクしちゃいます…!)

■1回目の現代パート(利風が久しぶりに大陸から帰ってきて再会を無邪気に喜ぶ晴明)
晴明の“僕も祈っている。及ばずながらな。”に対して、利風は“頼む。”と素直に受け止めてしまう。(まあ普通に考えても、謙遜している相手の言葉をそのまま受け入れるのは失礼だけど…笑。仮に思っていなくても普通は会話のコミニュケーションとして、“いやいや、そんなことはないけれど”的なニュアンスの返しをするはず…。)

このあとのト書きでは、

その言葉に晴明、微笑んで利風を見る。
少しの間。

とあるんだけど、
この時点で、晴明は目の前の利風がいつも自分のことをいつも気にかけてくれていた思いやりに溢れた幼馴染みの利風ではないことを疑念から確信へと着地させたんだなと。
ここの部分の倫也さんの晴明の表情の繊細なお芝居もとっても好きで。(ライビュではアップになってなかったけれど、円盤ではなんとかこの瞬間の表情をぜひみせてほしいなと願ってます…!)

■2回目の過去パート(現代との差別化のために衣の色も変え、髪もあげてて美しいうなじが印象的な若晴明)
晴明の“力を尽くそう。及ばずながらな。”に対して、利風は“及ばずながら?そんな言葉、二度と言うな。お前らしくない。”と睨みながら強めの口調で反論する。(オリジナル利風は晴明の陰陽師としての能力をとっても高く評価している!)

改めて…こういう二つの時系列を超えてのギミックをさらっと盛り込んでくる中島さんの脚本がまず秀逸すぎるし、それをいのうえさんマジックとの融合で脚本の範疇に収まらずに豊かに表現してしまう役者さんたちがまた素晴らしくって…この現在と過去との対比のシーンは…いつも静かに感動しまくってはぁって魅入ってしまってます。

と、ここで改めて…
“晴明が、利風がオリジナルではなく、九尾の狐にのっとられている姿である”ことを疑い始めたのはどのタイミングなのか…戯曲をもとにみていきます。

晴明が、九尾の流れ星をみた翌日に都に赴き、“この国を大災厄が襲うと。”(P28)元方院に奏上。
そこに、利風がタイミングよく(!)久しぶりに大陸から戻ってくる。
“都に着いたのは昨日でございます。”(P29)
そして“昨日”とは、晴明が九尾の流れ星をみたのとタイミング的に同じ日すぎるし、昨晩の禍つ星を“九尾の妖狐だ。大陸の大妖怪がこの日の本に渡ってきたのだな、あれは。”(P29)と利風が堂々と言い切ったことから、晴明は目の前の利風がその九尾の狐そのものではないかと直感的に疑いを持ったのでは。

ここでのポイントは、晴明の台詞の前につけられた“……”だと思ってます。

①“……九尾の流れ星?まさか!”(P25)
※お芝居だと冒頭部分にあたる

②“……まさか。戻っているのですね、彼が。”(P28)
③“……利風。”(P29)
④“……さすが利風だ。”(P29)

②、③、④の“……”には、
利風から受けた言葉に対して晴明が返答する時に、パッと即答する感じではなく、“あ…やっぱり利風じゃないのかな…?”という疑念、ためらいの思考が表れている気がしていて…。
晴明は、利風との久しぶりの再会を笑顔で無邪気にテンション高く喜んでいるように振る舞いながらも、(きっと再会した瞬間からなんとなく利風の振る舞い、表情や空気感からなんか違うと直観していたのでは…)本物の利風ならこのような言動はしないのでは…と、一つ一つの会話を進めながら疑念を確信へとじわじわと変化させていっているのかなと。

戯曲を読んでから、改めて“……”を意識しながら実際の倫也さんのお芝居を観ると…
しっかり、ちゃんと、言葉には出てこない晴明の思考の揺らぎの表れである“……”が表情や口ぶりから表現されていて、また倫也さんのその間のとり方が、空気感が…実に見事なんですよねぇ…。
(実は、最初は“……”の意味は、久しぶりに利風に会ってテンション上がった晴明の爆発的な喜びを表しているのかな、って勝手に思ってたんですが…やっぱり違うかなと思うに至りました…笑)

もちろん世の中の全てのお芝居に対して、こうして原作の戯曲本が存在している訳でもないし、手に入れられる訳ではないので(新感線の中でも戯曲本があるのは、たぶん中島かずきさん作品だけなので、倫也さんの新感線初出演作品であるVBBにはない訳で…!)改めて…実際のお芝居を観た後に戯曲本を読むことで、理解できなかった部分を補うことでより感動を深めることができるし、お芝居と戯曲の違いを楽しんだりできるし(基本は戯曲本をベースにはしているけど、いのうえさんが付け足したその役者さんならではの面白ネタ、時事ネタや日替わりのアドリブやご当地的なアドリブやらいろいろありますよね!)本当に贅沢な楽しみ方をさせて貰っているなぁと感謝しかありません。

しかも!やはり!一番嬉しいのは…戯曲本が手元にあることで、まだ円盤発売前の今でもページを捲るだけで、瞬時にそのシーンがいつでも何処でも自由に脳内再生できること!やはり、推しの役者さん主演舞台でこれができるのは最高に幸せなことですね。

かなりとりとめがなくなってしまいましたが…
兎にも角にも、11月11日の大阪大千穐楽の日まで、どうかカンパニーの皆さまがご無事で幕が上がり続けることを祈るのみです。

それでは、シーユー。

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