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小説|二週間

 感じのいいやつ、というのが僕を知る多くの友人からの寸評だった。
 
 大学を出てからは大手の食品会社の研究部門で、缶詰めの魚の長期保存方法を開発していた。仕事はアドレナリンが出るようなタイプの職種ではなかったが、国内の缶詰めのシェアでは有数だったからつぶれる心配は少なかったし、缶詰めの魚は世界中どこでも食べられていた。
 ある晩、会社の同僚と飲みに行った帰りに、自宅のマンションの前に見知らぬ外国人風の男が立っていた。僕は特に気にも止めずにそのまま妻が待つ七階の部屋へと向かった。エレベーターを上がり廊下を通り抜けて部屋の前に着いた。鍵を開けて中に入ろうとすると、ドアが内側からロックされていることに気がついた。高い階に住んでいることもあって普段は二重のロックなどしないのに、なにか妻を怒らせることをしたのかもしれない。外のキーを開けても中でロックが解除されなければ、扉は数ミリしか開かない仕組みになっている。
 何度かドアをガチャガチャと動かした後にインターホンで妻を呼ぼうと手を伸ばしかけたとき、となりにさっきの外国人風の男が立っているのに気がついた。内心少し驚くとともになんとなく気味が悪いものを感じたが、失礼にならないように僕は軽く会釈した。彼は僕にたいして関心がある様子でもなく、訛りのないとても自然な日本語で、つまらなそうにタバコを吸いながら僕に話しかけた。
「この家は、こういっちゃあなんだけど、ちょっと狭すぎやしないか」
「この辺りは地価が高いんですよ。そのうちにもう少し大きいマンションに引っ越すつもりですけどね」
「そのうちっていうのは、実際のところ、いつのことなんだい」
「それはまだ僕にもわからないな。仕事のこともあるし、三年か四年先くらいじゃないかな」
 僕はこの見慣れぬ男がとりあえず危険ではなさそうだと判断し、一息ついた。
「三、四年?やはりヒトというのは、随分悠長なんだねえ。もう将来の家の心配はしなくていいよ」
「それはどういうことですか」
「つまりね、きみの人生はもうぴったりと包囲されてるってことなんだ。二週間後に指定された場所に来てくれるね?一応言っておくけど、逃げようなんて思っても無駄だよ。この部屋はもう厳重に監視されてる」
 彼の話しぶりは穏やかだが批判や質問を受け付けず、中世の頑迷な聖職者を連想させた。
「なぜだか教えてもらえませんか」
 男はうんざりしたように眉をしかめた。
「人間はいつもそうだな。オレが来いと言ったら、来なければいけないんだ。マドレーヌにはたっぷりのバターを入れなければならない。たいやきはあたまから食べなければならない。そこに結果があれば理由がいつでも一緒に付いてくると思い込んでいる。こうやって考えるんだよ。たいやきはあたまから食べられることを望んでもいないし、恐れてもいない。たいやきがどうしてしっぽじゃなくてあたまからボクを食べるんです?なんて疑問に思うか。そこにしっぽやおなかから食べられる可能性は一切存在しない。定められた結果があり、そこに向かって単独で孤独に物事は遂行される」
 僕は混乱していた。そんな運命論みたいな話が実際にありえるだろうか。だが目の前のこの男の話す様子は、そういった小賢しい反論には露もかかずらわない自信に満ちていた。
僕は納得したわけではなかったが、受け入れるしかなかった。男は指定の場所を僕に伝えると回れ右をして廊下を帰っていった。ちょうどタバコを一本吸い終わったところだった。 
 部屋に帰ると妻はテレビで定時のニュースを見ていた。先ほどの男とのやりとりにはまったく気づいた様子はない。僕はそのまま自分の書斎に入り、電気をつけないまま深く椅子に沈み込んだ。あの男に言われたことを信じるしかないという気持ちになっていた。いや、それはむしろ信じるか信じないかという問題ではなく、ただそれを事実として受け入れるしかないという、諦念にも近い感覚だった。

 理由のない悲劇は、悲劇にすらなれない。人は何が起こったかではなく、どのような環境や条件が重なりあってピストルが発砲されたのかに関心を持つ。
 
 僕はこのことは自分の内だけに留めておいて、誰にも話さないことにした。話したところでもまともに取り合ってはくれないだろうし、逃げても無駄だというあの男の言葉には、そんなことをすればもっとひどいことになるというニュアンスが含まれているように感じられた。
 カーテンを人差し指で目の大きさに開いて、暗いままの部屋から国道に面している外の様子をうかがった。もちろんマンションの七階から外を見たところで、二十四時間同じアルバムを流しつづけているチェーンレストランのネオンや、つい先程までの僕と同じように、会食を終えてねぐらに向かうタクシーのヘッドライトしか見えない。あの男とその仲間たちが僕を見張っているというのは、なにもカーテンの影を覗き込むようなチンケなやり方じゃないだろう。僕はそう思い当たると、多重債務者のように外をコソコソとうかがうのが馬鹿らしくなり、カーテンを乱暴に引っ張って大きく開いてからシャワーを浴びるために部屋を離れた。
 
 今日からの二週間で人生のあれこれを処理しておかなければならないだろう。急にいなくなっても警察であまり問題にならないようにしておいた方がいいだろうし、妻や家族にも事情を説明した手紙を残しておかなければならない。
 翌日、さっそく僕は適当な理由をつけて職場から二週間の長期休暇をもらった。一応、今とりかかっている魚の長期保存に関する研究データは社内の誰でもアクセスできるサーバーに移しておいた。
 それから僕は喫茶店に入り、妻と家族宛に手紙を書き始めた。紙に改めて文章を書くということ自体久しぶりだったので、なにを書いたらいいのかわからなかった。どのように説明したところでうまく伝わる気がしなかった。しかたなく僕は昨晩あった出来事をできるだけ正確に事実として述べることにした。事実を整理して主観を削ぎ落としたニュートラルな文章を書くことは、それにまつわる個人的見解を述べるよりもずっとスムーズにできる作業だった。僕はそれに加えて、遺産の相続などで法的にもめないような書き方をした文章をインターネットの力を借りて書き足した。僕は報告書兼遺書のようなものを書き上げた。
 
 ここまでの作業を終えて喫茶店のテーブルから目を離し、壁の時計を見ると午後の三時半だった。
 三時半!僕は愕然とした。僕の人生を処理するのに半日しか必要ないんだ!二週間なんてとんでもない!
 僕はとたんに恐ろしくなった。これから訪れる死についてではない。それまでの二週間を、絶望した空っぽの人生を、生きなければならないことが恐ろしくてたまらなかった。
 家に帰ってもなにもする気が起きなかった。昨日まで人生と社会を繋いでいたように見えた鎖は、いともたやすく朽ちて絶たれてしまった。僕はもう社会に対してなにもする必要がない。そして社会も僕がもうハナから存在なんてしていなかったように、見向きもしない。
 僕は部屋に籠もって打ちひしがれた。まだ人生にやり残したこと、いなくなる前にやらなければならないことがあるのではないかと必死に考えた。
 しかし最期だと思うとどれもそれほど価値がないもののように感じられた。海外旅行も、慈善事業も、豪華な食事も、心から望んではいないことに気がついた。僕は自分が空っぽだということを自覚した。
 
 それからの数日間は長く、苦しみの日々だった。僕は食事も睡眠もまともにする気にならず、みるみるうちに衰弱していった。妻は心配して僕を病院に連れて行ったが、医師の診断はそっけないものだった。先生は僕に突発性の鬱状態のようなものだと告げ、精神安定剤と睡眠薬を処方して、二週間経ってもよくならないようだったらもう一度来るようにと告げた。世の中にはこのような症状の人間がごまんといるらしい。
 
 その後の残された時間は、日がな一日窓の外を眺めて過ごした。
 とうとうあの男との約束の日がやってきた。僕は二週間前から五キロも痩せてしまい、いっぺんに二十歳も年をとったようだった。
 指定された場所は人通りの少ない河川敷の橋の下だった。数年前まではここにダンボールを持ち込み生活している人たちがいたが、新しく当選した市長は公約を果たし、彼らを"撤去”してしまった。
 僕は約束の十分前にはそこに到着し、暗がりの湿ったコンクリートに腰を下ろした。
苔の匂いが僕の心をいくらか落ち着いた気持ちにさせた。
 男はちょうど時間通りにやってきた。前と同じ服、同じ革靴。
 「やあ、約束どおりに来てくれてうれしいよ。この二週間はどうだった」
 僕はその質問には答えずに、座ったままただまっすぐに男を見つめた。
 「せっかくこの世との別れの時間を与えてあげたのに、どうやら楽しんだわけではなさそうだね」
 男はそう言ったが、本心は別にあった。この男は知っていた。人間の空疎さを。この男は決して親切心から時間を与えたわけではなかった。
 「さあ、行こう」男は僕の額に軽く手を触れると、その指は皮膚と骨をすり抜け、本来であれば前頭葉があると思われる場所に達していた。男はオーディオコンポのつまみを調整するように、注意深く指をわずかに捻った。それでおしまいだった。

 徐々に遠ざかる意識の中で僕は幸福な気持ちに包まれていた。この二週間僕を支配していた絶望は、無に取って代わられつつあった。それは僕の人生で最も穏やかで、最も匿名性の高い救いだった。

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