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小説|白い電話

 すべての技術がいずれ陳腐化するように、電話もその法則から逃れられないでいる。僕が空で覚えているのは、自分自身の番号と実家の番号、それに職場の係に直通の番号くらいだ。ガールフレンドの電話番号だって覚えてはいない。そもそもガールフレンドにラインやスカイプじゃなく、本当の電話をかけたことがあっただろうか。

 八月のありふれた日曜日の午後だった。僕はその夏何度目になるかわからない冷やしうどんを食べたあと、ソファに寝転がりながらJリーグの中継を眺めていた。毎試合熱心にチェックしているわけではないから、数人の看板選手以外は名前を知らない。十代の頃は控えやベンチ入りしていない選手の利き足までくまなく知っていたのに、海外リーグの試合が簡単に見られるようになってからはJリーグをあまり見なくなってしまった。かといって海外リーグをそのぶん見るようになったわけでもない。僕は国民年金の支払いや、サンフランシスコの人々の栄枯盛衰や、ボタン一つですぐに出会える女の子たちとのデートで忙しかった。Jリーグの選手たちは最新の戦術を学び、ヨーロッパから選手を連れてきて、スマートにプレーするようになった。
 ボールがサイドラインを割ったところで画面から目を離してウトウトし始めたとき、スマホに着信があった。メッセージアプリの通知じゃない、正真正銘本物の電話だ。その音にはアプリの通話機能には真似することができない、生得時な深刻さがある。 
 どのみち日曜日の午後にかかってくるようなのはろくな電話じゃあない。通っている整体院からの次の予約の確認か、どこかから電話番号を嗅ぎつけた保険の勧誘くらいなものだ。どちらにしろうたた寝を中断して出たいような相手ではない。僕はそのまま通知を切ってやろうと思い画面を覗いた。
 
 そこに映っている番号を僕は知っていた。小学生のときによく遊んでいた近所の女の子の番号だ。あの頃はまだ携帯電話は出回っていなかったから、放課後誰かと遊ぶとなったら家の電話にかけて、お母さんなりおばあちゃんなりから取り次いでもらうのが普通だった。クラスの連絡網から彼女の番号を確認して何度も電話をかけているうちに、僕は彼女の家の番号を覚えてしまった。初めてそのことに気がついたとき、少し悪いことをしているような気持ちになった。彼女の秘密を僕だけが知っているような、そして彼女にはそれを見透かされているような気持ちだった。それでも彼女の家族にそれがばれるわけにはいかないと、僕はいつにもまして丁寧にお母さんに取り次ぎを頼んだ。
 僕がなぜその子と親しくなったのか、はっきりとした理由は覚えていない。きっと宿題を写させてもらうかわりに給食のデザートをこっそり渡してでもいたんだろう。世の中の多くの美しく価値あることと同様に、僕たちはこれといった理由もなく徐々に疎遠になり、違う高校へ進学してからは顔を合わせることはなくなった。

 その女の子から十五年ぶりに電話がかかってきている。
「もしもし」僕の声は指紋がべったりついたレンズから覗く海中の泡のように不明瞭だった。
「ああよかった、つながった。ひさしぶり、突然電話をかけてごめんね。どうしても聞きたいことがあったの」
 彼女の声は十五年の時を経て大人の女性のものになっていたが、あの頃に家の固定電話から聞いていたものと芯の部分では同じだった。そしてそのことは僕を幸せな気持ちにさせた。
「Kくん、まだゆうれいのこと信じてる?」
「ゆうれい?あの、おばけとかうらめしやとかっていう、幽霊?」
「そう、その幽霊。ほら、私って元からそういうのが見えやすい体質だったじゃない?あの頃は周りの大人に話しても全然まともに取り合ってくれなかったけど、Kくんは一緒になって心配してくれたから」
 そう言われれば小学生の頃に彼女がおばけを見たと相談してきたことがあった気がする。僕は夜には一人でトイレにも行けないくらいの怖がりだったから、彼女の心霊体験にもさぞかし恐ろしがっただろう。
「幽霊なあ。子供の頃はそういうものの存在をなんとなく信じていたけど、大人になってからは幽霊がいるかどうかなんて考えたこともなかったよ。僕は怖がりだったからそういうものの存在を恐ろしいとは思っていたけど、霊感自体はないから実際に見たことはないんだ。理屈のうえではいてもおかしくないとは思っているんだけどね」
「そう、でもそれがやっぱりほんとにいるの。私にとっては子供の頃からずっとだから、全然特別なことじゃないんだけどね。でも最近はちょっと様子が違うみたいなの。見えることもそれはそれで慣れちゃえばどうってことないから気にしてなかったんだけどね、ここ最近はご先祖様の霊がすっごくはっきり見えるようになったの。今まではぼんやり時々こっちを眺めてるくらいだったのに、今回のヒトは二、三歩離れたところから、じっと見つめてくるの。それで少し怖くなっちゃって、Kくんの声を聞いたら現実世界にちゃんと引き止められるような気がしたの」
 彼女はそれをいっぺんに言ってしまうと、手元の水を飲んだらしいごくんという音が聞こえた。
「そういうこともあるのかもなあ。でもあんまりよく状況がわからないよ」
「ねえ、もしよかったら、一度その幽霊に会いに来てくれない?」

 Now Loading... Now Loading... ピーー、Ready to Start...

 翌週の週末に彼女の家を訪ねた。彼女の家は僕の家から電車で一時間半くらいのところにある、年季の入ったアパートだった。
「このアパート、ちょっと作りは古いけど雰囲気があって気に入ってるの。全部ピカピカ新品じゃ落ち着かないでしょう?」
 玄関を抜けると、外から眺めたよりも部屋はずっと広かった。リビングの隅にある小さなテーブルの上には、白い押しボタン式の固定電話がテキスタイルの電話カバーに包まれていた。彼女は二人分のフィルターコーヒーを湯呑みに淹れた。
 僕たちは時間をかけてコーヒーを飲みながら、この十五年間にお互いの人生に起きたことを話した。何も特別なことはない。進学、就職、放浪、家庭……。僕はそれらの言葉自体に疲れていた。しかし彼女がそれらの言葉の意味するところを落ち着いた表情で語ると、不思議とその言葉たちは僕の心の中にすんなりと居場所を見つけた。

「それで、幽霊のことなんだけど」
 彼女はそれまでとは少し違うトーンで話し始めた。
「二、三ヶ月前からご先祖様の霊がよく出てくるようになったの。だいたい私がこの家に一人でいるときに出てくるんだけど、たまに職場のデスクの隅に立っていたりもする。なにかしてくるわけじゃないから別段直接的な被害とかはないんだけど、あんまりよく出てくるからなにか事情があるんじゃないかと思って」
「ほら、今日もさっきからそこにいるのよ」
 彼女が指差す方向を見ると、たしかに背の低い60代くらいの男性がぼんやりと立っている。影が薄い感じの人相ではあったが、この部屋に入ってから全く気づかないということはたしかに普通の人間ではなさそうだ。それでも、姿が透けて向こう側が見えたり、足が途中でなくなっていたりとかという、一般の幽霊像にはあてはまらなかった。
 彼はやや猫背で眼鏡をかけていた。幽霊も眼鏡をかけるのかと僕は少し感心した。その眼鏡越しに彼は部屋のある一点をしばらく見つめていたかと思うと、彼女の方へとゆっくりと視線を移してまたじっと見つめた。それは誰かの顔を眺めているというよりも、そこに視線を留めることが必要とされているから従っているにすぎないという雰囲気を持った眼差しだった。
「ほら、こうやってじっと私の方を見つめてくるの。でもなにか言うでもないし、背後霊が人生に迫った危機を伝えに来てくれてるって感じでもないじゃない?彼自身が出てきたくてこんなに何度も私のとこに来てるのかさえわからないのよ」 
「うーん。なるほど。たしかに、彼がなぜ出てきたのかを考えるのがいいかもしれないね」
 僕はこの状況を楽しみ始めていた。何をとってもおかしいような気がした。おじさん幽霊の存在、突然電話をかけてきた幼馴染の女の子、強い意志があるかのように沈黙を守り通している白い押しボタン式の固定電話。
 
 僕はためしに彼の方へ歩み寄ってみた。近くからみるとますます彼がこの世の人間ではないことが明らかになった。そこにいるという感覚がまったくといっていいほどないのだ。そして決定的なことに、彼には触れることができなかった。彼の肩の上へ置かれようとした僕の腕は、肩口から入り、胴体を素通りして、脇腹から出てきた。
 見た目には普通の人間なのにどうやって僕の腕は彼の身体を通り抜けたのだろうか。もっと近くから見てみようと思い、顔を近づけたときだった。

「しるし」
 彼は僕へ向かって話しかけていた。
「印」
 聞き間違いようがなかった。彼の目線はいつの間にか僕の眉間に注がれていた。しばらくの間誰も動き出さなかったが、幽霊はそのまますっと消えてしまった。

 ザー……、Connected to "K"…….

「本当にごめんなさい。幽霊がそんなことをするなんて夢にも思わなかったから。今まで一度も話しかけてきたことなんてなかったの」

 それ以来幽霊は出なくなったし、彼女ともその後数回会っただけでまた疎遠になってしまった。僕はそれから印となり得るようなものを探し、そして強く恐れるようになった。印と出会ったらなにが起きてしまうのか、そもそも印とは何なのか。その答えはおろか、手がかりすらつかめていない。ただひとつ明らかなのは、僕はこれからも印を探し続けるだろうし、それを恐れながら生きていくだろうということだけだ。

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