見出し画像

死にかけの蟬を助けた話。

8月の盛夏の頃で在つた。
洗濯物を干さうとベランダに出たら蟬が死んでゐた。灰色の蝉だつた。
此れはニイニイゼミと云ふ蝉で、餘り鳴かないと言ふことを昨年調べて知つてゐた僕は、萬が一生きてゐたとしても大きな音は出さないだらうと思つて、輕く箒で履いた。
その瞬閒、蝉はぴくぴくっと體を動かした。
なんだ生きてるんぢやん! と予期せぬ蟲の動きに僕は心臟をバクつかせ、瞬時に2、3步ジャンプで後退りする。
さて、此れからどうしよう、と僕は考へ込む。

ところで僕は、前の人生で人閒の生を終へた後、3回くらい蟲に轉生してその後、森の小動物に轉生して、それから人閒に生まれ變はつた、と云ふ夢を見たことが在る。
その時に、蟲の孤獨さや辛さ、心細さを感じて居た。
だから此の死にかけの蟬の氣持ちも少し理解るやうな氣がして、他人だと吐き捨てる氣に成れなかつたのだ。

僕は此の蝉の死に際が少しでも穩やかな物に成る樣にと助けてやる事にした。

死にかけの蟬の視點で見れば、このベランダは絕望の砂漠だ。
水も草も無く、恢復の手立ては見附からない。飛ぶ力もなく這ふこともやっとではベランダの壁は高くて出ることも出來無い。そんな場所だ。

僕はそもそも蟲は嫌ひで怖くて苦手だ。出來る事なら關はりたく無いし、子供の頃から觸れた試しはない。
さう云ふ譯で僕は、少し離れた所から水を流して蟬の體を濡らして上げる事にした。

グラスに水を汲んで灼熱のベランダに流して蟬の體を濡らしてやる。すると蟬はピクピクと動き始めた。何度かそんな事を繰り返す內に、蟬は少しづつ這ひ回れる樣に成つて、じわじわ移動して行つた。この調子で外に出て、土や木のある所に行つて呉れ〜。さう思つて僕は水を流し續けた。水は流した側からすぐに乾くものだから、僕は繰り返し水を流した。

正直蟬が此樣に復活するとは思つて無かつた。僕は最後のお水を上げる位の積もりだつた。
壯絕な死を迎へた人々の話を聞くと最後はどうしてもお水が飮みたく成るさうで、それで安心して亡くなる方も居るのだとか。
色々見聞きした中で、最後にお水が有ると少しでもその死は安らかなものに成るのかも知れないなあと思つて居た僕は、蟬にお水を注いで居たのだつた。

けれど何度目かに水を蝉の方へ流した時に、蟬がばたばたばたっと激しく飛び跳ねて、羽を廣げた儘その場でぱたっと力尽きて仕舞つた。

水が觸れた場所が惡く、驚かせて最後の力を使はせて仕舞つたのだらうか……と大變申し譯ない氣持ちに成つた。けれどその1時閒後にもう一度、ベランダを見ると蟬はまだ生きてゐるやうで少し移動して居た。
僕は刺戟に成らない樣に少しだけ水を流すと、その日はもうそれで放つたらかしにした。

次の日、ベランダを覗くと蟬は死んでゐた。僕は「南無三」に近い感情になり、心の中でなんとなく手を合はせ、この死骸をどう片付けよう……と思ひながら暫く放置することにした。蟲を觸るのは苦手だ。

それから2、3日經つた日の事だつた。僕が午睡をして居ると、ベランダの扉を開けて、彼の蟬がよちよち步いて入つて來た。蟲が嫌ひな僕は「ぎゃあああああ!!!!!」と叫ぶ。すると蟬は申し譯なささうに僕を見て、そして「ありがたう」つて雰圍氣を出して、すぐに部屋から出ていつた。
夢だつた。

此れは單なる夢だといふ可能性は高いけど、思ひ返せば人が亡くなつた時ってかういふ夢を見ることがある。蟬のあの妙な氣の使ひ方も、ありがたうつて言はずに雰圍氣で出して來た所も、僕には何だか昆蟲らしく感じられた。喋らない邊りが人閒の腦みそで考へた夢らしくないと思つた。

夢の眞相は判らない。ならばあの蟬が僕にお禮を言ひに來て呉れた、と思ひ込んでも善いんぢやないのか。1週閒程ぼんやり考へて、僕はさう結論を出した。あの蟬が僕にありがたうと傳へて呉れたのなら、あの時の水は屹度嬉しかつたのだらう。

もしかすると僕は、ほんの少しだけ善い事をしたのかも知れない。


お終ひ

性感帯ボタンです。