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昭和5年の中に残してきたネコのこと。

確証は無いけれど前世の感覚の話。

久世山という地名を意識してから、あの鷺坂を登って久世山の方を歩いてから僕は久世山のおうちに猫を残してきてしまったような気がしてならない。

前の人生、昭和初期。多分昭和5年頃。
僕はあの家で猫を飼っていた。とはいっても令和の時代のように家の中に閉じこめる感じじゃなく、放し飼いで猫も自由に家を出入りしている感じだった。
サバトラの猫だったような気がする。灰色の印象がある猫。

そのことを思い出すと涙が出てきて仕様がなかった。
あの猫はどうしただろうか。

僕がいなくなって、猫はどうしただろう。
あの時代の中に猫を置いてきてしまった。あの猫は元気に過ごしただろうか。
今となってはとっくに死んだであろう猫の行方が気になって仕方がなくて、僕は涙が止まらなくなった。

猫は子供が居なかった僕たち夫婦にとって、半分くらい子供のような存在だったらしかった。

薄暗い玄関を出入りする猫の後ろ姿などが思い出される気がして、堪らなく切なくなる。
僕は自分勝手に死んでしまって、猫を置いてけぼりにしてしまい、あの猫とももう二度と会えなくなった。
そのことに激しい後悔の気持ちと、悲しさが込み上げて仕様がなかった。

久世山の坂道は何か覚えがある気がした。この傾斜、傾斜を登ることで上がる息と流行る動悸、脈拍。この感覚を覚えている気がした。
なんとなく。少し懐かしい気がする。

道も一度歩けばすぐに覚えたし、通ってない所も頭の中の地図で思い描いた通りで、江戸川橋駅から行った2回目の訪問も何も道に迷うことがなかった。

久世山のことを思うと、此處にもう一度帰りたかったっていう気持ちになる。帰るつもりだったのになあって。どうしようもない後悔と焦りが込み上げてくる。

夢で見た前世の僕の死は、病気か事故かで病院で、自分でも知らない間に死んでしまったようで、本当にこんな風に永遠に帰れなくなるなんて思ってなかっただろうあなと思う。

僕が前世で久世山に住んでいて、猫を飼っていたということも本当にあった話なのかもしれませんね。
否、そう思っておいた方がきっと面白い。
此處で密やかに思うだけなら構わないだろう?

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