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シンドバッド船長/解説未満感想文

こちらにデータ入力をして書き起こした作品に就いての話です。
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僕の激推しモダンボーイこと、長谷川修二氏の短い1作です。
そもそも長谷川修二は映画会社で翻訳や宣伝部長をして居た人なので、創作小説畑の人ではないのですが、新青年には小説形式でモダンボーイ指南の様な文章を幾つか書いて居ます。
渡辺温が新青年に入ってから寄稿が始まって居るので、温の依頼で新青年に書き始めた事が考えられます。この話は渡辺温が編集部から離れて居る時に掲載されたものですが、温が縁で新青年と繋がりが出来たのでしょう。

この文章を書いた当時、昭和3年の長谷川修二は25歳(数えで26歳)独身でモダンボーイど真ん中。
この文章はモダンボーイによるモダンボーイのための文章と言えるでしょう。
また、長谷川修二は後に服飾記事の執筆でも活躍する人であり、非常にセンスが良くおしゃれな人だったようで、モダンボーイ的な生活を謳歌していたのではないかと思われます。

前半は当時の大阪・道頓堀のカフェの様子、後半は創作と実体験が入り混じったような或るモダンボーイと女給嬢の話と言えるでしょうか。
女給嬢たちのファッションやカフェの賑わい、恋心未満の彼等の淡い感情が、中国の古文やギリシャ神話などの引用、聞き慣れない熟語、それからシェイクスピアの詩の引用、「OH! BOY!」なんていう軽妙な感嘆を織り交ぜた筆致で描かれて居て、当時のモダンボーイの心象風景を真空パックで保存したような趣を感じます。

また、長谷川修二は東京生まれの東京育ちで大正15年(昭和元年)の12月から仕事で関西へ引っ越したそうなので、東京人から見た大阪のカフェという距離感も感じられる文章であると思います。

この短い文章だけでも長谷川修二は若い頃からとても教養深い人在ったことが察せられますが、彼の親友である渡辺温が「モダンボーイは教養がなくてはダメだ」と主張していた事、またその信念をもとに渡辺温が作り上げた雑誌への寄稿文としてこの作品を見た時に、この文章はモダンボーイの中のモダンボーイの文章だと言えるのではないかと、僕は思って居ます。

この文章は、ある種昭和3年のモダンボーイの文章として頂点に近いのではないかと……本日は長谷川修二の121回目の誕生日でもあるので(2024年7月27日)この位大きなことを言って置いても良いかな、と思って居ます。

閑話休題……と書いてバイザウェイとルビを振るのがこの長谷川修二でありますが……

文体から滲み出る昭和3年のモダンボーイの空気感、それから物語の流れとオチ。この落とし方と読後に残る、軽い笑いと甘い切なさ、全然重たく残らない感じ。この軽さに僕は「モダンボーイ」らしい精神を感じます。
自由で囚われず、新しいものを取り入れていくモダンボーイの精神には、こういった軽さが自然と欠かせない物では無いでしょうか。

こうして作品の印象を書き並べて居ると、僕が渡辺温作品に感じるものと共通した所が在るので、もしかしたら長谷川修二作品にも渡辺温作品に近いエッセンスが数滴入って居るのかもしれません。
それは二人が共に過ごした時間や、共に育んだ感受性に拠る物なのかもしれませんね。

「シンドバッド船長」なる人物は架空の人物で、当時(昭和3年=1928年)に東京ー大阪間を飛行機で帰った、と描く様な出鱈目で自由でファンタジーなキャラという位置付けなのだと思いますが、僕は渡辺温がモデルなんじゃないかなあと睨んでいます。
・某座の女優と親しくしていて三人でカフェに行ったということ
・カフェの女性にとにかくモテたということ
・二人で午後四時まで飲んだくれていたこと
この辺りの描写に想像を逞しくしてしまうのですが、シンドバッド君と主人公「余」との会話もとても親しげで、渡辺温と長谷川修二の二人の距離感のように感じさせられました。

長谷川修二は他にも渡辺温がモデルでは、と思われる作品を書いて居るのですがそれに呼応するように、温も同じ企画内で「H氏」という胡散臭い人物を出して居ます。
シンドバッド船長のエピソードが全て渡辺温ではないにしろ、幾つかは温にまつわる話があるのではないかなと僕は考えて居ます。

渡辺温の文章を読んでいくと、物語の材料の半分くらいは実体験が入って居るような印象があります。半分は言い過ぎだとしても、何処か彼の私生活から持ってきた要素があると感じます。
私生活に在る物事に空想や夢、詩情を足して作った作品ではないかと僕は見て居るのですが、長谷川修二の作品群にも似たようなものを感じます。
大学在学中時代、二人は毎日ずっと一緒に居て沢山のことを話したらしいですが、そんな二人であれば創作の仕方が近くても不思議ではないかなと思いました。

長谷川修二の話は一人称が「余」で尊大なのに対し、とほほなオチで締められて居ることが多いです。
この落差の笑いも皮肉が効いて居て、新青年で見られる類の冗談、並びにモダンボーイ流の笑いのセンスだと感じます。

文学史に残るような作品ではないと思いますが、僕は長谷川修二の作品が大好きです。
荒削りながらも、当時の感覚と空気が瑞々しく残されたこの作品が、埋もれて居るのは勿体無いので、誰もやらないならこうして僕が少しずつ表に引き摺り出してみようかなあと思って居る次第です。


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