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本來左利きだった自分を見つけた話

僕野辺の小鳥が呟く所に拠ると、は本來左利きだつたんぢやないかしら。

子供ぢやあるまいし「左利き=天才」說を信じて執着してゐる譯ではないけれど自分がどちらなのか何なのか釋然としないと云ふ事は、事あるごとに引つ掛かつて仕舞ふ。

文字を書くのも、箸を持つ方も右手だつた。
けれど窓拭きをする時の雜巾を持つ手や、ハンドル式の鉛筆削りでハンドルを回す時はいつも左で
「右ぢやない!」
と人に指摘される度、惡い事をしてゐるやうな氣になつて落ち着かなかつた。
實際それはマナー違反だつたのか?
よくわからないけど。
僕にさう指摘をする親などは詰問するやうな言ひ方をするものだから、僕は無意識に出る左手を後ろめたく思ふやうにってしまつた。

それ故に此様な小さなことが氣になつてしまふ。
人前では雜巾を持つ手も右にした方が善いのか? 鉛筆を削るのは右手でやるのが正しいのか?と。

かういふこともあり、自分が本來何利きなのか氣になるやうになつてしまつた。

先日何氣なく目についたネット記事に此様なことが書いてあつた。
「何かの作業をする時に、左手になる人は本來左利きです!」
と。
その一言が僕を一氣に樂にさせた。
冷靜に考へれば出典元もよく見て居ないしどの程度信憑性のある記事か
解らないけれど、ああ確かにさうかもと思ふものがあつたのだつた。
そもそも右利きなら何かの拍子に左手が出てくることがないんぢやないかな、と。

僕の兩親は僕のことを右利きに矯正した覺えはないといふけれど、僕は生後3ヶ月の頃から哺育園や祖母宅へ預けられてゐたりして、親以外の人が育兒をして居た時閒も長く、また父が、祖母が僕を右利きに矯正したかも、と言つて居たことがあり、さうかもしれないあなと思ふ。

中學生くらゐの頃、ふざけ半分、兩利きになりたい半分で、左手で鉛筆や箸を持つ練習をして居たけれど、右ほど上手くはないけれど、そんなに苦でもなく此方でも好いなら此方でも良いや、といふ感覺にはなつた。
因みにに鉛筆削りのハンドルを持つのはどうしても左ぢやないと氣持ちが惡い。

さういへば僕は左右盲なのだが、これは「箸を持つ方」と言はれても左で持つ方がしつくりくる氣がして、左のことを右と言つてしまふ。
右の方がメジャーな雰圍氣があるけど、僕にとつてメジャーで明るい雰圍氣なのは左なので、その感覺があるものだから何時も閒違へて仕舞ふ。

思へばこれは本來左利きなのを右に矯正された所爲なのではないだらうか。

と、ここまで書いた所で檢索をしたら、實際さういふ話はあるやうで、やつぱり僕はきつと本來左利きなのだらうと亦一つ納得を得た。

この件でまた一つ、本來の自分の姿がどんな物なのか理解つたことで僕は淸々しい氣持ちになつたのでした。


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