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そもそも「何者かになる」必要はあるのか問題

前回こんな記事を書いた。我ながらひどい殴り書きなのだが・・・

若い時分はついついサクセスストーリーやマンガやアニメの英雄譚にあこがれて「自分も何者かでありたい」と思い描いてしまうものだ。そしてこれは私はすごく良いことではあるし、今も私もできることなら多くの影響を及ぼしたい。不出来ながら私は諦めていない。諦めの悪い衛宮切嗣なのだ。

何者かにならなくても社会に影響を及ぼすことはできる

そもそもの前提として、我々は「何者かにならないと社会に及ぼしたい影響を及ぼすことができない」と考えているような気がする。しかし待ってほしい。何者かにならなくても社会に影響を及ぼすことはできる。そして何者かになることと幸せであることはイコールでもない。

プロのスポーツ選手と子どものリレー

昔読んだ、「ソース あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。」という本の一節をおぼろげながら覚えている。

バスケットボールのプロの選手にあこがれていた人が挫折してしまい、夢を抱けずに落ち込んでいるケースだった。これはまさに「何者かになりたいがなれなかった」という状況である。
そのあとこの書籍内では、その彼が本当に得たかったものは「プロのスポーツ選手になること」ではなく「バスケットをし続けたい」ことと「多くの人を楽しませたい」というものである、ということに気づかせる。そしてそれは必ずしもプロのバスケット選手という方法が唯一ではなく、日々バスケットをしながら別の方法で社会に貢献していくことで十分に達成できる、ということを発見するという内容(だったと思う)のだが、バスケットをし続けたいにしろ、スポーツを見て喜んでもらうことにしろ、プロの選手にならないとできないことではない、というのは確かだ。

なんなら私がこの数年でもっとも心を突き動かされたスポーツはワールドカップでもなくオリンピックでもなく、「子どもが通う幼稚園の、(自分の子ですらない)年長クラスの子らによるリレー」だった。プロスポーツ選手になれば多くの人に見てもらえるかもしれないが、多くの人に見てもらえないからといって心を動かすことができない、ということではない。

幸福になるためのお金の使い道がない経営者

また別の話をすると、私の知り合いでもたくさんの経営者の方がいる。金銭的にも社会的にも成功者=何者かになったといっていいだろう人物でも問題を抱えていることがある。彼らは「お金を使いたいものはない」という。100%満たされているのかというとそうではなく、家庭の環境がガタガタだったり、従業員と良好な関係が築けておらず幸福そうに見えない人もいる。社会的に影響を及ぼすことができるからといって幸せになれるとは限らないのだ。

そもそも、僕らはそんなにたくさんの人に影響を与えたいのか

そもそもである。私たちはそんなにたくさんの人に本当に影響を与えたいのだろうか。そんな顔の見えないたくさんの人よりも、眼の前の人たちが笑ってくれて、喜んでくれて、毎日を幸せに過ごしてくれることのほうがうれしいんじゃないだろうか。そう考えていくと、私たちは「社会に貢献しろ(そしてさもなくばお前は価値のない人間だ)」という呪縛に囚われすぎているように思う。

「何にでもなれる」というメッセージの希望とあやうさ

私の住む南相馬市では「18歳の巣立ち応援」ということでポスターなどでメッセージを送っている。とても良いことだと思う。そして以下のメッセージもとても良いメッセージであると思う

一方で、私たち大人は「何にでもなれる」と言うけれども、「でも別に何にもならなくてもいいよ」というメッセージも一緒に発信しないといけない気がする。「何にでもなれる」というメッセージは、裏を返せば「何者かにならないといけない」「何者にもなれていないとしたら貴方の能力か努力が足りていないからだ」というメッセージを持つ可能性もある。センシティブな若者たちがそうしたメッセージの裏にハマる前に、「それは問題ではない」とケアしてあげることも必要なんだと思う。

「何者である」ことは手段である

ちょっと横道にそれたが、「何者かである」ことは個人の幸福にとって無価値ではない。しかしそれは絶対的なものでもない。幸福を感じるの要素の一部として言われる「社会に役割を持てること」を達成するための1手段にしか過ぎない。それが足かせになることによって個人の幸福度を低下させたり、無価値な人間だと感じて絶望するようなことがあってはならない。

何者でもない大人も楽しいと言っていこう

そんなわけで、私も何者でもない大人の1人である(いや、社会的にいうと多少名は売れているので何者でもないといったらあれかもしれないが。)

家族もいて子どもと遊びに言って、地域の人たちが頑張ってるねって応援してくれてる。経営状況は芳しいとは言えないし、もっと他の人がやっていればなんてこと毎週のようにある。補助金や助成金に恵まれる星には生まれなかったし、なんだったらそういったメインストリームに乗らない方向にBETする性質すらあるような気がする。

他のうまくやっている人たち、タイミングがあった人たちなんて正直めちゃくちゃうらやましい。私もフェ◯ックスプロジェクトに採択されかったぜゴルァみたいな気持ちはある。当然ある。

まぁそれでも、こんな人生も楽しいのだ。泥臭くやっている人間にしか見えない世界もある。私は300人に話しを聞いたんだ!!と地域の声を代弁してるかのような振る舞いをして、実際には地域の活動には一切出てこない小説家の方には見えない世界がたくさんある。「またチラシ持ってきてね、楽しみにしてるからね」といってくれるようになる世界の楽しさがある。そういった道路に落ちているようなキラキラを拾い集めていくような幸せのあり方だってあるのだ。

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