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人本旅「座布団の房-土俵の四本柱」

座布団の隅に房があるのはなぜ?

NHK「チコちゃんに叱られる!」で上記表題のテーマを視聴する。

大東文化大学の宮瀧教授の解説では、座布団の原型は平安時代に貴族が使用していたしとねであり、茵は薄畳うすじょうに布の縁をつけた正方形の敷物であるが、高級なもので天皇や貴族など位の高い人々が使用していたが、「房」は存在していない。一般大衆は、縄をとぐろ状に編んだ円座えんざという敷物が主流だったが江戸時代に木綿の生産が本格普及して庶民の間にも綿入りの座布団が広まるあたりで、房が付けられたらしい。

江戸時代には火事、地震、疫病など様々な災いが多く、古くから、しめ縄、甲冑の房などに使われていた「房(型)」を、邪気・穢れを払うモノの象徴として、身を守るためのおまじない・ゲン担ぎとして付けたのでは。とのことだった。

ちなみに注連縄しめなわの紙垂の間に下がっている房は正式には、〆の子しめのこと言うようで、様々な形を紹介するサイトがあったが閉鎖されていました。

土俵にあった四本柱

この解説エピソードに大相撲の吊り天井に付いている房を紹介していたが、付帯情報として昭和27年のテレビ放送が始まる頃までは、土俵の四隅に柱が存在していた事が紹介される。

四本の柱には黒、青、赤、白の布が巻き付けられていたらしい、それが吊り天井になった時、黒、青、赤、白の布は、そのまま黒房・青房・赤房・白房へ変化したとの事。柱には御幣が付けられていた。

相撲土俵四本柱

江戸時代中期から発達した地方における勧進相撲かんじんずもうは、後期の約100年間に職業相撲として定着し、しっかりとした組織ができ盛んに催された。それにともなって相撲土俵上で組み立てられる櫓やぐらは、地方で勝手に建てることができず、江戸の角力すもう元締の許可が必要であったとのこと。

四本と聞くと、すぐに御柱を連想するが安易に結びつけるのは、今後正しく史実を知る上でノイズになるので、ここではあまり意識しない事が重要だ。

諏訪神社の土俵

千葉県香取郡東庄町笹川の諏訪神社では、相撲祭りの飾り付けに「屋根の内側上部に国技館の四隅に下がる大きな房のように、この土俵では、黒、青、赤、白の丸太が下がる。そこに神社の(諏訪梶葉)紋入りの紫の天幕《水引幕》を黒《北》より、ぐるりと張り巡らせる。」とあってそういえば諏訪神社は相撲と縁が深い事を思い出した。

五行思想

黒、青、赤、白というのは五行思想の関連であるという。ただし、五行には仏教の五行と陰陽道の五行の二種類あること知る。色々考え方があるんですね。

各時代ごとの相撲の歴史

相撲の歴史に着目して調べると奈良から鎌倉にかけての事柄を紹介するサイトに会えた。

南部相撲 ~ 岩手の土俵は四角い土俵 ? - その2
https://msystm.co.jp/blog/20151121.html

国技(になる競技)の割には、その歴史は過去なんども禁止令が出ていたして面白いです。何度もやめろといわれても止めない民衆の「たくましさ」を感じました。

雷電為右衛門

江戸時代も11代の家斉の頃になると、相撲人気は隆盛をほこるようになったとの事。寛政2年(1790年)に、197cmの巨人の「雷電為右衛門」が登場した事も相撲人気を一気に押し上げたらしいです。雷電さんは、長野県東御市出身の信州が誇る力士です。諏訪大社上社にも立派な像があります。

諏訪大社上社本宮の雷電像に注目 御嶽海の大関昇進で
http://kyodoshi.com/article/11343

今回は、チコちゃんの番組から房のルーツや、相撲の歴史を知ることが出来ました。


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