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また、春が来る。

 先日、卒業に関わる書類を大学へ提出しに行った。休学を一年挟んで合計五年も通ったので思い入れが深く、小中高のどれよりもきちんと自分の時間を過ごしたという実感がある。懐の深さみたいなものが、僕が通った場所の中で最も高かったのだろう。

 その日は快晴で、まっさらな太陽が青空の真ん中に陣取っているような日だった。自転車を漕ぎ進める僕の顔へ暖かな風が当たっていた。すれ違う人のすべてが幸福そうで「こんな日が毎日続けばいいのにな」と心の底から思った。最近はまた寒くなってしまったけれど、そのときの僕は春が来たことを確かに感じていた。

 冒頭に「また春が来る」と書いているけれどそれは嘘だ。春が来ることは"また"なんて副詞と共に語られるべきことではなくて、僕たちはそれが一度きりなことをもっと切実に感じるべきだ。また来たと言えるほど同質な春は、人生に二回だってない。

 こんなことを考えてしまったのは、僕がこの春京都を出て行くからだと思う。また、なんて言っている場合ではないことに直前まで気づいていなかった。いや、気づいていたかもしれないが、緩やかに続いていく日々がそのことを注視させなかったのだと思う。

 大学へ上がるときのことを思い出していた。そのときも今と同じような感傷を抱えていて、次に行くことが怖くて仕方がなかった。前に進むのってすごく怖い。その恐怖を忘れるために日常系の作品を見ているのではないかと思うくらいに。でもどんな作品にだって最終回は来るし、日々はループを作らない。昨日の前のいつかのあの日をなぞるように歩を進めてみたって致命的なズレに気づくだけだ。白線の上からはみ出さないように置いた足は、いつだってその線を割っている。

 ただ、この恐れが一過性であることも理解している。大学生活も振り返れば素敵なものになっていたし、次の一年も悪くはないのだと思う。

 それでも僕はこの怖さを文章に残したいと思ったのだ。時間は恐怖ですら風化させてしまうから。僕はこんな気持ちだって忘れたくないし、今までも忘れたくないことのために文章を書いた。これからもずっとそうしていきたい。

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