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ほとんどのたばこは有害。

 人生で24度目の夏。いや、僕は春の生まれだから正確には25回目の夏か、細かいことはどうでもいいんだけど。まあとりあえずそんなような夏は、あまり派手ではない、むしろ地味な感じでやって来た。梅雨がものすごく早く明けてすぐに戻って来たとか世間では言われていたけれど、そんなことは僕にはまったく関係ない。そんな暦を僕は採用していないし採用するつもりもない。

 雨が降ったりやんだりして、母校の購買が水没したりなんかして、なんやかんやあったあと空は青々とした姿を残すのみとなった。あんなに分厚かった雲は見る影もなく、当然地面にも影は落ちていない。照り付けるお天道様から逃げるために木陰やひさしの下を選んで歩いていると、白線の上だけを通って家に帰った自分との連続性を感じる。本当に連続かどうかは別としてさ。

 自分が夏の到来を実感するのがどんなときか考えたことはある?僕はない。正確には、今回の夏を迎えるまで考えたことがなかった。ふと気がつけば夏はすぐ隣に座っていたし、僕がちょっと目を離せばもうそこにはいない。こんな自由な存在は妖怪かもしくは猫かの二択だと思う。僕もそのくらい自由に振舞えればいいのに。

 雨が降らないからといって、気温が上がったからといって夏が来たと思うたちではないらしい。ついでに言えば、気象庁が提唱するように6~8月を機械的に夏だと考えるわけではない。他の人がどうかは分からないけど、日常生活の中でそれを判断し、今は夏だとかもう夏ではないとか無意識のうちで理解している。

 そういう判断が行われていると気づいたのはつい最近のことなんだけど、これが結構単純なことだった。多分そこら辺の小学生と同じくらいかそれ以下だ。僕の中では、蝉が鳴くのが夏だ。

 思い返せば、蝉の声を聞かずに過ごす夏は今まで存在しなかった。実家の裏手に木が一本生えていたんだ。あまり大きな木ではなかったけれど、勝手口の向こうに青々とした葉っぱの揺れるのがよく見えるから、夕涼みを兼ねてよく眺めていた。その部屋は家の一番北側だったこともあって結構涼しかったからね。青い羽根のついた古い扇風機が首をぶんぶん振りながら風を送っていて、蚊取り線香の煙が行くあてもなくふらふらしている。そして網戸の向こうからはせみがわんわん鳴いているのが聞こえるんだ。それが僕の、夏の風景。

 大学生のときなんかは毎日ずっと蝉の鳴き声を聞いていたといっていいかもしれない。なんせ住んでいた場所が場所だったから。そこはかなりごちゃついた場所で、放置されて育ちっぱなしになった木々が生命の限り空を目指していた。雑草なんかも山ほど生えていたから、自然に侵食されている水準としてはそこらの廃墟と同じくらいだと思う。よくあんなところで生活していたなあ。

 家の全体がそんな感じだから、虫とか生き物とか(人間含む)がいっぱいいて、それぞれ好き好きやっていた。その中でも蝉は特別うるさくって、朝から晩までそこらじゅうで鳴き続けていたんだ。僕は夏の間は大学へ行かないことに決めていたから(熱中症とかこわいから)一日部屋の中で蝉の声を聞いていた。蝉がうるさいなと思いながら布団を這い出して、徹夜をしてから蝉が鳴きだしたなあと思いながら眠りについた。大学生活のBGMとして蝉の声が耳にこびりついていた。

 今住んでいるところでは、蝉の声をほとんど聞かない。通勤中だって聞かない、働いている間も聞かない。本当にまったく蝉の声を聞くことがない。おかげで僕だけ夏に乗り遅れてしまった、なんということだ。この前の連休に京都へ行かなかったら、僕は一生春に取り残されていたかもしれないのだ。考えるだけで鼻がむずむずしてくる。

 大学時代によく寝ていた押入れで目を覚ましたあと、意味もなく喫煙所へ行った。僕はその喫煙所がかなり好きで、何代も前の先輩が一人で勝手に立てたと言われるその場所でよくぼーっとしていた。いろんな人がやってきて、たばこを吸って、吸い終わったら帰っていく。たまに少し話をして、大学や政治に悪態をついて、たばこの火が消えたら部屋に戻る。僕は喫煙所で生まれる人間関係が好きだ。お互いの共通点は喫煙者であることしかないかもしれないけど、それはお互いに少数派だということで、仲間意識や親近感が芽生えやすい。それに、たばこを吸い終わるまでの短い時間の関係だというのもいいね。

 話が逸れたけど、僕はその日もそこでゆっくりとした時間を過ごしていた。たばこはあってもなくてもよかったけど、貰ったので吸ってた。4ヶ月ぶりの煙はやっぱり喉にやさしくない感じがするし目に染みる。細く長い煙を吐くのは今でも苦手だ。

 誰かが拾ってそこに置いているぼろぼろのソファーに座って、屋根のもっと遠くにある空を見上げる。たばこは空を見ながら吸った方がおいしい気がする。空を見られるなら雨でも晴れでも構わない。夜だっていい。そんな風にしているときに、蝉が鳴いていることに気がついたんだ。それはそのまま、夏への実感に変わった。ああ、夏が来たんだと思った。夏は来ていたんだ、だったかもしれない。

 よく分からないけど感傷的な気持ちになったのでジンジャエールを買った。それを飲めば爽やかな気持ちになる気がした。まあ結局、喉が痛かっただけなんだけどね。けむりは身体に悪いから。

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