Mリーグが目指すもの

ガチ勢はMリーグに対して冷淡か、という記事があった。有料記事なので記事の内容には細かくは触れないけれど、要するに、Mリーグが取り込もうとしているのはライト層、麻雀のルールは知っているけれど実際にはあまりしない人、であり、その間口を広げるという戦略自体は正しく、従ってマニア層、ガチ勢に目を向けないのはやむを得ない、という論旨だった。


概ねその通りだろうと思う。Mリーグの創設は、麻雀業界史上「Mリーグ以前」「Mリーグ以後」という形で括られることになるくらいの大きな出来事だ。この機会はまさに千載一遇の好機であり何としても成功させなければならないと多くの業界人は思っていることだろう。そこで採るべき戦略が、マーケットの拡大であること自体は何の問題でもなく、むしろ当然だ。

だから、どうしたってそれはライト層が飛びつきやすい作りになる。麻雀プロとして実績があり、その実力についても一定の評価があるプレイヤーばかり集めるよりは、注目を集めやすい華を求める。ストーリーを求める。リーグ戦に参加することはまずないであろう萩原を急遽プロ団体に所属させ、2ndシーズンに女流を1人以上入れることをチーム構成のルールとして定めた時点でそれは明らかだ。

博報堂という広告代理店が入っているのだからそれくらいしないわけはない。博報堂がチームに全く無名の丸山を入れたのは、シンデレラストーリーを作りたかったからだろう。裏目に出たところで初代優勝チームの苦境という展開だって悪くはない(予選リーグで落ちたのはさすがに想定外だったかもしれないが)。

一方、そういう形で入ってきたプレイヤーの闘牌は、ガチ勢には物足りない。正直言って見るに堪えない対局内容も少なくなかっただろう。でもそんな視点で見るのはガチ勢だけであり、ライト層はそこに付随するストーリーに惹き込まれるわけで、内容も結果も伴っていなかった和久津の涙の初トップや、成功する見込みが薄かったはずの丸山の倍満ツモトップを称賛する。その展開に盛り上がる。

彼らにとっては、内容が真に強者の選択の結果だったかはわからない。極論すれば「よくわからんけど結果はすごかった」でいい。「なんかいろいろ考えててすごい」でいい。そこから伝わってくる「プロってすごいんだ」というイメージがMリーグの商品だ。

それはそれでいいのだろうと思う。かつて僕がライト層だったころ、僕もそうやって麻雀に惹き込まれたから。

少し昔話をしよう。かつて(もう30年以上前だ)僕が麻雀を覚え、友人との小博奕に飽き足らなくなって街の雀荘に行くようになった頃、僕は麻雀プロは相手の手牌を読めるものだと思っていた。リーチをかけられても当たり牌を一点で止め、回し打ってあがる、それがプロだと思っていた。実際に彼らはそういう雰囲気を醸し出していた。プロの対局を観戦しに行き、煮詰まった局面でプロが長考に沈む様を目にする。そのプロは、いろいろと思考を巡らせ、意を決して結論を出す。それが的中していることもあれば的外れであることもあるわけだが、対局の後で当人の口から出る「その結論を出すに至った思考の過程」を聞くだけで僕は痺れた。というか、その場況を記憶しているだけで尊敬した。

「あそこでAさんが6pを手出ししてきたんだよね。で、仕掛けているBさんがその2巡前に4p手出ししてきてて~」

などという能書きを聞くだけで楽しかった。

だから自分もそうなりたくて、必死に相手の手を読んだ。いや、読もうとした。たまに自分がこれだと思った当たり牌の予想が的中していると、それだけで嬉しかった。その牌を使い切って回ってあがれたら得意満面だった。(実を言えば今だってそれは嬉しい)

でも自分がだんだんガチ勢になってくると、その読みというものが幻想のようなものであることに気付く。それは自分が凡人であることに気付くからでもあるのだけれど、そんな精度の高い読みなどできないことに気付く。じゃあ一握りの天才なら出来るのかと言えば、実はそんなこともないのだということにも気付くようになる。「天牌」の登場人物は現実の世界にはまずいないのだ。

それを曝け出したのはネット麻雀ととつげき東北だ。それまでプロが唱えてきた戦術の多くを否定し、読みというものが実は思い込みに近いということを明るみにした。実力というものは信頼のおける区間成績で測る方がずっと正確だということを知らしめたのもネット麻雀ととつげき東北だ。

ネット麻雀黎明期はレーティングで実力を測っていた。だからレートの変動が落ち着く400戦が実力判定の指標だった。

ところがガチ勢はそれでは足りないことに気付く。天鳳ができて鳳凰卓ができると、彼らは言い始めた。「500や1000戦打ったくらいじゃブレ幅大きすぎね?」と。そして彼らは狂い始める。それならそれで、麻雀の実力の測定というものが実は不可能ではないかということに気付けばいいのに、彼らは沼に沈んでいく。あろうことか「5000戦は挨拶」などと言い始める。ちょっと待てよお前ら5000戦打つ人間がどれだけいるってんだよという正気を保った者の諫言も彼らには届かない。

天鳳の東風戦を1戦打つのにだいたい15分かかる。東南戦なら30分だ。東南戦を1日5戦打つとしてだいたい2時間から2時間半だ。毎日その習慣で打ち続けて、5000戦打つのに1000日かかる。3年だ。しかもだ。そこでようやく出てきた成績を周囲と比較するためには「母体のレベルが3年間一定であり、自分も比較するべき対象も実力が不変である」ということが前提になる。でなければ正確な比較にはならない。

だから長期の成績も結局は推定に過ぎないことになる。もちろんその推定にはそれなりに信頼はおけるわけだけれど。

そして麻雀の実力評価の方法は一周する。目利きが「あいつは強い」と評価すればそれが通ってしまうようになる。その鑑定がどのようになされたかはブラックボックスだから、自薦他薦が横行する。根拠の定かでないイメージで評価がされるようになる。何のことはない、ライト層が思う「よくわからないけどすごそう」と大差ないことになってくる。

けれど、今巷間で話題になることのある「Mリーガーの実力評価」だってそういうことだ。衆目が完全に一致することなんてない。誰かが自分の物差しで測っただけのことだ。

そうなるとMリーガーの採るべき最適な行動は「Mリーガーはすごい、と思ってもらえそうなことをする」ということになる。そう考えるとあの謎の長考も納得がいく。彼らは何か正解に至ろうとして長考しているわけではないのだ。時間を使わないで選択してそれが失敗だった時に叩かれるから時間を使うのだ。それは半ば無意識的に、だろうけれど。

読む、というのはとても都合がいい。読みに使う材料となる情報は自分で選べる。場況だ人読みだと加えていけばどのような結論でも導ける。時間を使って考えさえすれば、観戦者が勝手に読んでいる内容を想像してくれる。ライト層はもちろんのこと、ガチ勢だってその材料の適否なんて全部はわからない。

そして仮に理論的には損であるという結論に至るべき選択をしたとしても、麻雀には結果オーライというものがある。というかそんなのばかりだ。40:60くらいの差など頻繁にひっくり返る。「損な選択だと誰が言おうと、俺は俺が選んだ方が正解だという打ち手になりたい」とか言っておけば損な選択だってあながち否定もされない。こうして麻雀の実力やプロの在り方は一周したのかなと思ったりする。

こう書いていると、その時流のようなものに僕が批判的であると思われそうだけど、そうではない。そんなもんだしそれで仕方ないだろうと思っている。全ての選択に数字的な優劣はあるはずだけれど、実際には付けられないのだ。畢竟その対局はエンターテイメント、バラエティの味付けがされるようになる。でないと面白くないからだ。

ただ、そのバラエティの作り込みの甘さにはうんざりする。たびたび出して申し訳ないけれど、丸山が育成枠で入ったならちゃんと成長する過程も演出しろよと思う。

他のMリーガーに突撃取材、みたいな企画を丸山にさせているくらいなら勉強しろよって思ったりもする。プロ野球の2軍の選手が1軍のエースとキャンプ一緒にさせてもらっているところを取材して、その2軍の選手が「エースとプライベートでご飯食べました」というだけの企画に出てたらずっこける。お前そんなことしてねーで他のこと学べよってファンの多くが突っ込む。プロ野球は興行としてそれくらい成熟している。

もし僕がプロデューサーやディレクターで、丸山にそういう取材をさせるなら、取材対象のMリーガーを待つ間にスマホで天鳳打たせる。

「何してるんですか?」
「待ってる間に天鳳1戦打てるかなって。園田さんに今月300試合打って疑問に思った局面のレポート10件出せって言われてるんです」

みたいなやり取りさせる。別に天鳳じゃなくてもMJでも何でもいいんだけど、とにかく丸山が成長するために努力している演出を混ぜる。これでガチ勢の50%くらいは好意に変わる。

朝倉を取材するなら、朝倉が麻雀の研究をしているだけでなく、まつかよに頼んでボイストレーニングや滑舌の訓練をしているシーンを混ぜる。

「最近解説のお仕事やゲストで挨拶したりして人前で話す機会が増えたんで」

みたいなことを移動の最中にしゃべらせる。多井なら逆に本人が陰でやっている研究の一端を垣間見させる。そうやってMリーガー一人一人を調べ尽くしてもっと深みを持たせる。そのストーリーの深さ、ディテールの細かさが商品価値を上げていく。数値化されないものをブランドにするならそうするしかない。箱根駅伝がここまでのモンスターコンテンツに育ったのは、日テレが作る選手のサイドストーリーの細かさのおかげでもある。ふつうに考えれば選手の競走能力と何の関係もないはずの、幼少期のエピソードを混ぜることで視聴者を惹きつける。思い入れとは要するにその選手のサイドストーリーへの共感なのだ。

Mリーガーはものすごく大きなプレッシャーと戦っている。叩かれることへの恐怖だけでなく、この興行を失敗させられないという使命感からくるプレッシャーだ。その大きさは計り知れない。だから余計に作り込みの甘い演出はしてほしくない。それはMリーガーという商品を無駄に消費していく。作り込みの甘いチープなバラエティは飽きられるのも早い。でも丸山が一線級のプロになるまでリーグ自体がもたなかったら抜擢する意味がないだろう。

丸山を使ったのはそういう意味ではありだ。ライト層はそのシンデレラストーリーに自分を重ねられる。Mリーグは「観る雀」の獲得にパラメータを振った。ガチ勢の満足ではなく。でも「観る雀」から「打つ雀」への導線がないと、いつか人材は枯渇する。Mリーグに必要なのは、選手だけではなくその演出に携わるプロデューサーであり、選手を助けるマネージメントではないだろうか。

そういえば、福地先生のnoteでもラグビーの話が出ていた。ワールドカップの効果でトップリーグの観客数は飛躍的に伸びたという。そして、そのうちの何%かの子供がラグビーを始めたそうだ。

ラグビーは麻雀と似ていて、ルールが難しい。反則の笛が吹かれた時に、それが何の反則だったかも分かりにくいし、反則かそうでないかの判断も難しい。そして前にボールをパスできない上に、密集では手でボールを扱えないからなかなかボールが出てこないことがあるというもどかしさもある。

だから今まで観客が伸びなかったのか、というとそれは早計で、かつてラグビーはものすごく人気のあるコンテンツだった。早明ラグビーは6万人近い観客を集める超人気カードだったし、まだ1月15日が成人の日だったころのラグビー決勝は振袖を来た女の子もたくさん観に来ていた。

それが下火になったのは、大学を卒業した後に入るトップリーグの設計が今一つで日本代表の成績が悪かったのと、マニアがライト層にものすごく冷淡だったのだ。

冬の寒い中、列に並んでスタジアムに入ってきたライト層の横に、マニアのおっさんが座ると最悪だ。ああでもないこうでもないと「ぼくのかんがえるりそうのらぐびーかんせん」を聞かされる。きゃーきゃーと女の子が騒ぐと「ミーハーはテレビで見てればいいのに」などと聞こえるように言ったりする。そんなおっさんがものすごく多くて、ラグビーの人気は下降線を辿った。僕は一度、ガールフレンドを連れて銀座のチケットぴあに並んだ時に、そういうおっさんに大学名を尋ねられ早稲田だと答えたら

「早稲田の奴は銀座じゃなくて高田馬場でチケット買えよ」

なんて言われたことがある。どこで買ったっていいだろ。

要するにラグビーはマニアに一度殺されているのだ。

ラグビーはその反省をこのワールドカップに活かした。ライト層を取り込もうと、ライト層向けの解説を呼んだり、ライト層に受けそうなイベントを数多く実施した。マニアに協力を呼び掛けたりもした。

そういう工夫の上に観客増があるとして、Mリーグはどうだろうか。マニアに殺されないためにどんな工夫をして、どうやってライト層を取り込み続けてプレイヤーに育てるか。

おそらく藤田さんの頭の中にはビジョンはあるだろう。それを具体化する上での策がちょっとまだ見えてこないなと思ったりはする。

まぁなんだかんだ言っても僕は楽しんでいる方だと思うけれど。

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