考える力 と 問題解決力
「考える力」であるとか、「問題解決力」であるとか、そういう言葉があります。「それが大事なんだ」とか、「そういう力を育てよう」とか、そういう論調で語られます。けれども多くの場合、「それが具体的にどんな力で、どうやれば育つのか」という点には触れません。だから、なんだか空しい。
その言葉は、学校でもよく見かける言葉です。というより、他の場所でより、学校で出てくる頻度がたぶん最も高いでしょう。「ウチの学校は勉強を教えるだけじゃありません、有能な人材に育てます」みたいなことを言いたいのでしょう。けれども、その言葉は学校で語られると、ますます空しい。
なにしろ学校で生徒たちは、毎日毎日、数学や英語の問題を考え、国語や理科や社会の問題を解いているのです。そんな彼らの文脈に従えば、「考える力」も「問題解決力」も「教科の問題を考えて解く力」であり、それは要するに「学力」に他ならず、「偏差値いくつ」というのと同じ意味合いになります。
もちろん、それとは違う意味で「考える力」と言い、「問題解決力」と言っているのでしょう。それはなんとなく分かるのですが、だったらなおさら「それが具体的にどんな力で、どうやれば身につくのか」を言わなければならないはずです。むしろ学校でその言葉を使うときは「その力は、いわゆる学力と何がどう違うのか」を言わなければならないはずです。けれども学校でそれを謳うときもそれを言わないものだから、だから空しいのです。
ところで、「問題解決」という言葉は「学習指導要領」(文部科学省発行)の教科「情報」のページで何度も出てきます。高校の「学習指導要領」は 400 ページほどもある大部なものですが、情報科に関する部分は 4 ページだけ。その中で「問題解決」、「問題の解決」、「問題を解決」などの言葉が、数えてみたら 18 回出ていました。いちばん密な部分をお見せしましょう。
これでひとつながりの部分ですが、この部分だけで「問題解決」という言葉が 13 回登場します。
ところで、「問題解決」とは何なのでしょう? それに応えるような記述はありません。「そんなものは自明だ」といわんばかりの言い様で、それにしてはしつこいほどの繰り返し。
それから、何をやれば「問題解決」したことになるのでしょう? それについての具体的な記述もありません。他の教科に関するページでは「こんなに細かいところにまで口出しするのか!?」と思うくらい具体的なのに、こと情報科に限ってはやけに具体性に乏しいのです。
ということは、「問題解決」のために何をやるかは授業を担当する教員に全面的に任されているということでしょう。それ以外に受け取りようがありません。そしてそうなると、要するに何をやってもいいということになります。なぜなら、何をやっても「問題を解決するため」と言えてしまうからです。知らないことに出くわしたときにネットで調べることも、道案内するためにドロー・ソフトで地図を描くことも、ワープロで文章を書くことも、データを表計算ソフトで集計することも、Webページで何かを発信することも、相談することも議論することも考えることも、いずれも何らかの問題を解決するためにやっていることだと言えます。そう考えればいいのでしょう。
「問題解決」とは何なのか? そのために何をやればいいのか? それらをひっくるめて、担当教員に丸投げされていると思うしかないし、そう思えばいいのです。
ところで、私は「考える力だとか、問題解決力なんてウソっぱちだ」と思っているわけではありませんし、「考える力だの、問題解決力だの言うな」と思っているのでもありません。 方向性としてはそうあるべきだと思っています。私が言いたいのは、「それが具体的にどんな力で、どうやれば育つのか」に触れないで、ただ「考える力」とか「問題解決力」とかいう言葉だけを使ってもそんな力はつきませんよ、ということ。その言葉を使うなら、「考える力や問題解決力を育てるための具体的なプログラムなりカリキュラムなり」を提示するべきなのです。
◇ ◇ ◇
〜 1行作文 〜
▷ 問題と解決をセットで挙げる + 問題解決とは?
▷ コンビニって便利だよね
▷ ポツダム宣言を要約する
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?