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宮沢賢治の童話にみる、自然の中での人間の立ち位置

童話「狼森と笊森、盗森」にみる、森と人との関係

 宮沢賢治の童話に「狼森(オイノもり)と笊森(ざるもり)、盗森(ぬすともり)」という作品があります。引用しながら、紹介します。

 まずは、男たちが森に囲まれた野原を、開墾しようとしていた場面です。そこで四人の男たちは、てんでにすきな方へ向いて、声を揃えて叫びました。

「ここへ畑起こしてもいいかあ。」
「いいぞお。」 森が一斉にこたえました。
みんなは又叫びました。
「ここに家建ててもいいかあ。」
「ようし。」森は一斉にこたえました。
みんなはまた声をそろえてたずねました。
「ここで火たいてもいいかあ。」
「いいぞお。」森は一ぺんにこたえました。
みんなはまた叫びました。
「すこし木貰ってもいいかあ。」
「ようし。」森は一斉にこたえました。

 ところで、人は森から一方的に恩恵を受けるのではありません。森が人におねだりすることもあるようです。

「おらさも粟餅持って来て呉(け)ろよ。」と叫んでくるりと向こうを向いて、手で頭をかくして、森のもっと奥の方へ走って行きました。

人が収穫した粟を、森が盗んだこともあったようです。

岩手山はしずかに云いました。
「・・・(中略)・・・ 盗森は、じぶんで粟餅をこさえて見たくてたまらなかったのだ。それで粟も盗んで来たのだ。はっはっはっ。」

こうして、森と人は友達になっていきました。

 「自然を守れ」というのとは、ちょっと違う。「自然と人間の共生」というのとも、ちょっと違う。日本人の心の中にある 森と人との関係 がよく表れている作品だと思います。

童話「氷河鼠の毛皮」にみる、動物と人との関係

 宮沢賢治の童話に「氷河鼠(ねずみ)の毛皮」という作品があります。冬の寒い日のベーリング(北極圏)行きの列車の中でのお話です。主な登場人物は3人です。

タイチ:高級な毛皮を身にまとい、防寒対策は万全。
    これから動物の毛皮を取りに行く。
赤ひげ:動物たちのスパイとして列車に乗り込んでいる。狐と思われる。
船乗り:たまたま乗り合わせていた乗客。事件を解決に導く。

 さて、物語の最終章。列車乗っ取り事件が起きます。
 突然列車が止まり、ピストルを持った赤ひげに続いて、熊と思しき人たちが列車に乗り込んできました。そしてタイチを捕えて、吹雪の車外へ連れ出そうとします。
 その瞬間、船乗りが赤ひげのピストルを奪い、赤ひげを捕虜にして言いました。以下、引用します。

「おい、熊ども。きさまらのしたことは尤もだ。けれどもなおれたちだって仕方ない。生きているにはきものも着なけあいけないんだ。おまえたちが魚をとるようなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるように云うから今度はゆるして呉れ。ちょっと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから」
「わかったよ。すぐ動かすよ」外で熊どもが叫びました。
  ・・・(略)・・・
「さあけがをしないように降りるんだ」船乗りが云いました。
赤ひげは笑ってちょっと船乗りの手を握って飛び降りました。

人間は仕方なく動物を殺している。動物たちがそれに抗議するのは正当だ。だから取り過ぎないようにする」。身も蓋もなく言ってしまえば、これが動物たちと人間との合意内容です。赤ひげはそれに満足しています。
 ここがポイントだと思うのですが、赤ひげは去る間際に船乗りと握手していますね。言い方を換えれば、人間は動物に感謝しながら、その体を自分たちのために使わせてもらうということでしょう。
 太古の昔から人間は、そんな感覚を持ち続けてきたのだろうと思います。

童話「土神ときつね」にみる、ニッポンの神様

 日本人にとっては、貧乏神もたたり神も神様である。神様がみんな高貴だとは限らない。人間以上に人間っぽい神様もいたりする。童話「土神ときつね」にはそんな神様が登場する。
 土神は沼地のようなところに住んでいる神様である。おそらくは汚らしい恰好をして、あまり今風な感じはしない。祠を訪れる人も少なく、祠は荒れている様子である。土神はときに人をそこに誘い込んで、意地悪をするようだ。
 それと対照的なのが、きつねである。きつねはおしゃれで物知りである。多少見栄っ張りなところとお調子者のところはあるが、今風の好青年だといえよう。

 一本木の野原の、北のはずれに、少し小高く盛りあがった所がありました。いのころぐさがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇麗な女の樺の木がありました。・・・(略)・・・
 この木に二人の友達がありました。一人は丁度五百歩ばかり離れたぐちゃぐちゃの谷地の中に住んでいる土神で一人はいつも野原の南の方からやって来る茶いろの狐だったのです。

 土神はきつねにやきもちを焼いているようです。そしてある日、あろうことか、土神はきつねを殺してしまうのです。
 秋の日のことです。土神は上機嫌で樺の木のところに来ました。そこにきつねがやってきました。樺の木と土神ときつねは少し話をして、きつねは戻っていきました。

 土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたがふと狐の赤革の靴のキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思いましたら俄かに頭がぐらっとしました。・・・(略)・・・
 土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四五へん踏みつけました。
 それからいきなり狐の穴の中にとび込んで行きました。中はがらんとして暗くただ赤土が奇麗に堅められているばかりでした。土神は大きく口をまげてあけながら少し変な気がして外へ出て来ました。
 それからぐったり横になっている狐の屍骸のレーンコートのかくしの中に手を入れて見ました。そのかくしの中には茶いろなかもがやの穂が二本はいって居ました。土神はさっきからあいていた口をそのまままるで途方もない声で泣き出しました。
 その泪は雨のように狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったようになって死んで居たのです。

 ここでお話は終わります。今時の倫理観からすると、土神のやったことは無茶苦茶といえるだろう。三流ドラマのストーリーあるいは三面記事的な事件ととらえれば、どこにでも転がってる話といえなくもない。
 でも、意外と暗くないのである。悪い気はしないのである。いや、なんか引っかかるといったらいいだろうか。なぜなんだろう。

◇      ◇      ◇

〜 宮沢賢治の立ち位置 〜  
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