宮沢賢治の童話にみる、自然の中での人間の立ち位置
童話「狼森と笊森、盗森」にみる、森と人との関係
宮沢賢治の童話に「狼森(オイノもり)と笊森(ざるもり)、盗森(ぬすともり)」という作品があります。引用しながら、紹介します。
まずは、男たちが森に囲まれた野原を、開墾しようとしていた場面です。そこで四人の男たちは、てんでにすきな方へ向いて、声を揃えて叫びました。
ところで、人は森から一方的に恩恵を受けるのではありません。森が人におねだりすることもあるようです。
人が収穫した粟を、森が盗んだこともあったようです。
こうして、森と人は友達になっていきました。
「自然を守れ」というのとは、ちょっと違う。「自然と人間の共生」というのとも、ちょっと違う。日本人の心の中にある 森と人との関係 がよく表れている作品だと思います。
童話「氷河鼠の毛皮」にみる、動物と人との関係
宮沢賢治の童話に「氷河鼠(ねずみ)の毛皮」という作品があります。冬の寒い日のベーリング(北極圏)行きの列車の中でのお話です。主な登場人物は3人です。
さて、物語の最終章。列車乗っ取り事件が起きます。
突然列車が止まり、ピストルを持った赤ひげに続いて、熊と思しき人たちが列車に乗り込んできました。そしてタイチを捕えて、吹雪の車外へ連れ出そうとします。
その瞬間、船乗りが赤ひげのピストルを奪い、赤ひげを捕虜にして言いました。以下、引用します。
「人間は仕方なく動物を殺している。動物たちがそれに抗議するのは正当だ。だから取り過ぎないようにする」。身も蓋もなく言ってしまえば、これが動物たちと人間との合意内容です。赤ひげはそれに満足しています。
ここがポイントだと思うのですが、赤ひげは去る間際に船乗りと握手していますね。言い方を換えれば、人間は動物に感謝しながら、その体を自分たちのために使わせてもらうということでしょう。
太古の昔から人間は、そんな感覚を持ち続けてきたのだろうと思います。
童話「土神ときつね」にみる、ニッポンの神様
日本人にとっては、貧乏神もたたり神も神様である。神様がみんな高貴だとは限らない。人間以上に人間っぽい神様もいたりする。童話「土神ときつね」にはそんな神様が登場する。
土神は沼地のようなところに住んでいる神様である。おそらくは汚らしい恰好をして、あまり今風な感じはしない。祠を訪れる人も少なく、祠は荒れている様子である。土神はときに人をそこに誘い込んで、意地悪をするようだ。
それと対照的なのが、きつねである。きつねはおしゃれで物知りである。多少見栄っ張りなところとお調子者のところはあるが、今風の好青年だといえよう。
土神はきつねにやきもちを焼いているようです。そしてある日、あろうことか、土神はきつねを殺してしまうのです。
秋の日のことです。土神は上機嫌で樺の木のところに来ました。そこにきつねがやってきました。樺の木と土神ときつねは少し話をして、きつねは戻っていきました。
ここでお話は終わります。今時の倫理観からすると、土神のやったことは無茶苦茶といえるだろう。三流ドラマのストーリーあるいは三面記事的な事件ととらえれば、どこにでも転がってる話といえなくもない。
でも、意外と暗くないのである。悪い気はしないのである。いや、なんか引っかかるといったらいいだろうか。なぜなんだろう。
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〜 宮沢賢治の立ち位置 〜
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