雪渡り
宮沢賢治の童話「雪渡り」の冒頭部分です。
南国の子・東京の子にはすぐには分からないであろうこの情景を、雪国生まれで雪国育ちの私が解説しましょう。
雪がふった寒い朝、ふわふわの雪の表面が凍りつくことがあります。雪の深さが1メートルほどになったとしても、新雪だからふわふわで、踏めばそれほどの深さではありません。その雪の表面が凍りついていると、体重が軽い子供なら、その上に乗れるわけです。でも調子に乗っていると体重を支えきれなくなって、雪の表面が割れる。そうすると、ズボッと雪の中に落ちる。この瞬間がまた楽しいのです。
雪がそんな状態になるのは、夜の間に粉雪が降った翌日の、すごく寒い朝だけです。昼になって気温が上がると、もう無理です。だから子供がその上を歩けるのは、登校の時間帯だけ。しかも私の家の周りは田んぼでしたから、普段は道路に沿って学校に行くところが、そんな朝に限っては家から学校までまっすぐに行けるわけです。普段は田んぼのその上を、その朝は真っ白な雪の上を、ふわふわカチンカチンの板の上を一直線に歩いていく。
うまくいけば学校まで、何事もなくまっすぐに一直線に行ける。それはそれで楽しい。そして、時にズボッと落ちる。でも、痛くないですよ。何しろ新雪ですから、綿の中に放り込まれるような感じで、むしろ楽しいのです。深さが1メートルほどもあれば、なおさらです。
さて、そんな雪が舞台となった童話があります。宮沢賢治の「雪渡り」です。私が子供の頃にその雪の状態、その経験をなんて呼んでいたか覚えていませんが、そもそもそれに名前がついていたのかどうかも知りませんが、今にして思えば、あれは「雪渡り」です。
もう一度、宮沢賢治の「雪渡り」の冒頭部分、先ほど引用した部分を読んでみてください。今度こそ、その情景が見えるでしょうか。
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」… とても良いリズムですね。
※ 今日、東京で雪が降ったので、授業中にそんな話をしました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?