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「個性を伸ばす」の落とし穴

「個性を伸ばす」と言うときの「個性」には、あらかじめ「伸ばすべき良い個性」と、逆に「抑えるべき悪い個性」が想定されているような気がしてならない。そしてそれを「伸ばす」と言うとき「他人と比べて、他人より秀でる」ことを目指しているように感じる。
 すなわち「個性」にいくつかの評価基準を設定して、それに合致するものについて競わせて、その基準に合わないものを丸ごと切り捨ててきたのではないか。そうなるとその後に「勝ち負けと順位づけ」が残されるのは必然で、その言葉は実は「各人の違い」を否定し、「多様性」を損なうものだったのではないだろうか。

 改めて「個性」とは何か? それを「各人の違い」だと考えてみよう。「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)と言うときの「ちがい」のことだと思ってくれても良い。
 そのように捉えると、個性に良いも悪いも無い。そして「伸ばす」の意味も変わってくる。伸びるがままに「任せる」とか、伸びていく姿を「見守る」とか、そんな意味合いになるだろう。
 さて「意図的に力を加えて伸ばす」のと「自然に伸びるがままに任せる」のとでは、結果がまるで違うだろう。ある方向に伸びるように「仕向ける」のと、伸びていくのを「見守る」のとでは、伸びる方向が真逆になるかもしれない。

 そして前者と後者では学校のあり様も変わってくる。大人が「伸ばすべき良い個性」を想定して子供を「その方向に伸ばそう」とすれば、子供たちは一旦「みんな同じ様になる」だろう。そして結果的に「優劣の差」がつく。
 一方で「個性=違い」と捉えて子供たちが自然に伸びていくのを「見守ろう」とすれば、学校で多様性が花開く。子供たちにとって学校はまず第一に「みんなの違いを知る」場所になるだろう。多様な子供たちと接することが、そのまま子供たちにとっての学びになる。
 学校はこれまで「協調性を学ぶ場」のように言われてきた。それは「みんな同じ様になる」ことを求められてきたことの現れでもある。
 でも私は反対に、これからの学校は「自己主張する場」であって欲しいと思う。それが個性(違い)を育み、お互いの個性を「知る」ことに繋がるだろうからである。

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