ジョン・フォード「荒野の女たち」
西部劇の西部を中国とモンゴルの国境の荒野に、アン・バンクロフトを流れ者のガンマンに置き換えたのだろうと思う。西部劇が時代遅れのストーリーになってきたことによる選択なのか、ジョン・フォードが遺作となることを知らず(恐らく)単に選んだ脚本なのかは分からない。
西部劇を想起する要素は他にもある。
それはストーリーもそうだし、アン・バンクロフト扮する医師のキャラクター設定(ニヒルな現実主義者)や、アウトローである馬賊もそうだ。
逆に西部劇とは違う要素もある。
馬が冒頭の数ショットを除いてほぼ出てこない。
銃は馬賊が持つライフル銃が数発発せられるだけで、バンクロフトを始め、主人公側の女性たちは銃を撃つことはもちろんなく、手に取ることもない。
そして、映画の最後の方でミショナリーの女性たちが押し込められる部屋を薄暗い照明で撮るショットは、西部劇らしからぬ絵画のように美しさがある。
美しさが西部劇らしからぬ要素ということではなく、このショットの持つ雰囲気が何か前後のショットとは異なる厳かさをもって観客に迫ってくる。そのショットの厳粛さが何やらキリストの受難というような宗教的な崇高さを孕んでいる。
実際、アン・バンクラフトは自身を犠牲にして、ミショナリーの女たちを馬賊から解放され、自身は馬賊の統領と共に自身が毒を入れた酒を煽って死ぬ。何やら宗教劇を観たような感情が後に残る。
この自己犠牲も西部劇にはよくあるストーリー的な要素であるが故に本作は西部劇を想起させるが、同時にこの部屋のショットは西部劇ではない要素も持ち合わせており、本作を傑作としている理由の一つではないかと思う。
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