ふと思ったこと色々

ツイートしてたり、してなかったりする細々としたこと、日常でふと思った事をもう少し深く考えてみる。

これは休日昼間に地方でやってるバラエティで、出演している壮年の男性がしていた発言。それに関してふと思ったこと。

私の家は別に不仲ではないんだけど、いわゆる機能不全家庭というものだと思う。そういう環境だからか、この発言が引っかかってしまった。

この発言をしていた芸人さんは『親は子供を強く思っているけど、子供は親をそこまで強く思っていない』という意味で仰っていた。
でも私は、真逆の意味にも解釈できるな、と思って興味深く感じました。

ここからは私が子供の立場しか経験していないからこう感じるのかもしれない、という前提で。

子供が親を愛する気持ちというのはとても強いもので、時として親よりも深い愛で親のことを愛していたりするものだ、と私は考えています。
特に乳児期〜幼少期の子供は強く親を、大人や保護者からの愛を、求めている存在だと思う。

その時期にちゃんと愛情を与えられた子は、親に対して感謝や愛情を抱くと思いますが、逆に愛情が与えられなかった子は親に対して、どんどん成長するにつれて諦観や嫌悪、さらには恨みを前提に親と接するようになる。
それは、思春期などの成長期に少しずつ手が離れてきたりして、だんだんと親を必要としなくなっていく、そんな自然な“自立“とは全く性質が異なるものだと感じています。

必要な時期に必要な愛情を与えてくれなかった親に対して、子供は何も返すことができません。
そもそも与えられていないのだから、返せるものが無いのです。

私は親から衣食住の世話はしてもらったので、そこは返せると思います。ただ、それを義務感や責任感だけでするのか、もしくは愛情もあるのか。今、想像することは難しいです。実際に世話をするとなった時になれば分かるかもしれません。

子供が親を必要としている時期は短いと聞きます。

大人になった今の私が、子供の頃に望んでいた通りに親から愛されたとして。もし、それによって私達親子の関係が好転したとしても、幼い頃の私は恨みを吐き続けるのでしょう。

最初にも書きましたが、決して親との仲が悪い訳じゃないです、育ててくれたことへの感謝もしてはいます。愛されている実感が欲しい、と思い続けてしまう私がワガママすぎるのかもしれません。
それでも、ずっと心の中に捨てられない蟠りがある、ただそれだけです。

ちゃんと愛してくれなかったのに、どうして産んだんでしょう。


私は一生、子供を産むつもりがありません。
そもそも恋人もいませんし、まず好きな人すらできたことが無い人生なのですが、まあそれとは別の理由で。

『私の遺伝子を半分持っているのに、私とは別人格の、全く新しい生命体を自分の意志で産む』というのをしたくない、できないと感じているのです。
反出生主義では無いです、ただ私に出産は無理ってだけです。

そんな人間である私ですが、子供自体は大好きです。小さい子がすることなら、なんでも可愛い、死ぬほど大声で泣いてても可愛い。
小学生ぐらい大きくなってしまうと、人間!って感じがして関わるのは苦手ですが。

昔から子育てエッセイなどを読むのが好きで、特に『うちの○姉妹』はアニメも観ていました。単行本も小学生だった当時に買っていて、今も持ってます。

スマホを持つようになってからは、SNSなど様々な媒体で子育てエッセイを読むようになりました。
最初はなんの気なしに読んでいましたが、ある日「自分の子供を持つ気がないのに何故読んでいるんだろう」と疑問を持ちました。しばらくの間は、中学生頃まで近所の小さい子の面倒をよく見ていたし、年の離れたきょうだいもいるからその流れかな〜と考えていました。
でも、インナーチャイルドやアダルトチルドレン、愛着障害という言葉を知って、それが自分に当てはまることを自覚していく段階で、ふと気付いたのです。

「もしかしたら私は、子育てエッセイを読むことで幼少期の自分を慰めているのではないだろうか?」

そう気付いた時、私は戦慄したし絶望しました。

子育てをしている側の目線だけで読んでいたのではなく、子育てをされている側の子供の目線で、しかも感情移入をしているとは思ってもみなかったからです。まさに晴天の霹靂でした。

「まさか」と思いましたが、そう考えると色々納得がいくのも確かでした。

漫画や小説を描くのは大変な労力が必要だと思います、子育てエッセイも同じく大変だと思います。
つまり、その大変なことをしている人イコール『子供に深い興味関心がある親』だと無意識に感じていたのでしょう。

しかも、子育てエッセイの多くは理想的な家庭のものが多いです。それにも関わらず、私は登場する子供達に対して、羨ましいと思うことがほとんどありません。
こんな風に愛情をかけてもらえる家庭もあるんだな、とはよく思います。
私はむしろ、ドラマでみるような『幸せな家族』というものが実在していることを知れること、それ自体が救いのようになっているのかもしれません。

もちろん離婚や夫婦喧嘩の描写があるエッセイもありますが、子供に対しては愛情深いことが多いのです。
大体は子供のことを第一に考えていて、一緒に遊んでくれたり、話を聞いてくれたりして一人の人間として接してくれる、そして時には叱ったりする。ハグをする習慣や、大好きだよと言葉で本人に伝えていることをかいているエッセイが沢山あります。
他にも、子供にトラブルが起きた時、親が必死に問題と向き合って解決したので、同じ悩みを持つ親御さんがいたら助けになるかもと思ってかきました!といったエッセイも多々あります。

そんな『子供が可愛くてしょうがない・大切だ』という気持ちのこもった“子供への愛情を感じられるエッセイ“を読んで、親に愛されている子供に感情移入をして、子供の頃の自分を慰めていたのです。しかも無意識に、しかも小学生の頃から、なんか怖すぎませんか。

書いてて賛否両論ありそうだなと感じたんですが、これどなたか共感してくれる方いらっしゃらないでしょうか、切実に……

ちなみに、毒親エッセイもよく読みます。毒親に関しては子供目線でかかれている作品がほとんどで、私もそのまま子供目線で読んでます。感情移入しているかは分かりませんが、とても勉強になります。


私は多分10歳位の頃から希死念慮があって、なんなら幼稚園児の頃から『死とは何だろう』と考えるくらい死を身近に感じているタイプの人間なのですが「そうじゃない人もいるよね」と、ふと思ったのです。

生きていて一度も死にたいと思ったことが無い、という方もいる、というのが最近の自分の脳みそから抜けていました。自分にとっては希死念慮があるのが当たり前すぎて、それを疑ったことすらなかった。重い話とかではないです、これは。

私は辛いことがあると死にたくなるので、どれだけ辛いことがあっても死が選択肢にないというのは想像がつかないです。
むしろ『目立った辛いことがなくても、何故だかうっすら死にたいと思っている』のが日常なので……

他人の死生観とか聞くの大好きなので、そういう話してもいいよ!って方がいたら是非お聞きしてみたいです。


私のここ数年の目標の一つに『多面的な物事の見方をする』というものがあります。
いわゆる、相手の立場になって考える、といった試みですが、なかなか自分以外の人間の思考というのは想像するのも難しいです。それでも考えることが趣味みたいな所もあるので、これからも沢山考えていきたいです。
ついでにアウトプットもできれば嬉しいです。言語化できると一気に思考が進むので、楽しいです。

誤字脱字は無視するか、こっそり教えてくれると助かります。

おわり。

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