恨み言

『情緒的ネグレクト』というものがあります。

ネグレクトというと長期間の放置や暴行等を想像する方が多いかと思いますが、情緒的ネグレクトに関してはそういった行為とはまた違ったものになります。
詳しくは専門的なサイトなどがあるので、ぜひ検索して見てみてください。

そして注意喚起というか前提として!

現在私は両親のいる実家で生活しており、うつ病による心身の不調から仕事はしておりません。

生活の全てを両親に頼れているという恵まれた状況下であり、家族で出かけたり食事したりすることも日常的に行える家庭環境です。

まれに友人から家族仲が良くて羨ましいと言われることもありますが、今回のこのnoteではそんな環境・状況・関係でも何故か幸せだと思えない自分のことを自分なりに考えて整理していきたいと思っています。

要するに基本的には、恵まれた環境にいる甘ったれたニートの戯言であり、傍目には人から羨ましがられるような家族の中で育った人間の、題名通りのただの『恨み言』です
それをご承知の上でお読みいただけるようお願いいたします。
いつにも増して脈絡が無い!!


昨今、心身ともに健康に生きていく上で自己肯定感が重要だ、と言うのは最近では常識に近いことなのではないでしょうか。

その自己肯定感を育む上で大事なのが、幼少期に両親から愛されていると実感したり、自分は受け入れられている・帰る場所があると感じることだそうです(専門家ではないので詳しくは書きません)

両親から愛された実感、これが今回のメインテーマです。

私は幼少期に両親が自分と向き合ってくれた記憶が薄いです

全く無いわけではないです、それこそ1週間ほど入院した時などは付き添いをしてくれたりとかあったので。

ただ当時の父は今よりも仕事人間で、朝早くに家を出て、日付が変わるかどうかの時間帯に帰宅する、というような生活でしたので平日は特に関わりがありませんでした。

たまにある休みの日に遊園地などに遊びに連れて行ってくれることもありましたが、私の記憶には常に携帯を手放せず仕事の電話をしている姿が一番残っています。

母も多忙で、ボランティア的なことをしつつ祖母の介護に掛かり切りだったのと同時に下の兄弟を妊娠していました。その為、身体がしんどいことも度々あったかと思います。
まだ幼い私と姉の日常の世話をするだけで精一杯だったかもしれません

なので私はいつも姉と二人だけで遊んでいました。

そして6歳になるかどうかという頃に弟が生まれ、そこからは弟の面倒を見ることが私達の日常になりました。

泣いたらあやして、おむつを変えたり、絵本を読んであげたり。時には着せ替え人形のようにして遊んだこともありましたが、4〜5歳頃には好き勝手させてくれなくなりました。
ご飯を食べる時は見守って、行儀の悪いことをしていたら叱って、着替えさせたり、外出の際には手を繋いで、公共交通機関では騒がないように気を配って、疲れたらおんぶしてあげる。

これはもう十数年以上前の話です、兄弟はすでに成人しました。

でも今でも覚えているのです、私の指を握りしめた小さな手に小さな爪が生えていたこと、体を海老のようにそらしながら大声で泣くのを宥めたこと、一心不乱におやつを食べる真剣な表情、お化け屋敷が怖くて力一杯しがみつく手、寝ている時の汗をかくほど熱い体温、延々と繰り返すはいどーぞ遊び、それらが懐かしくてしょうがない。

そうやって甲斐甲斐しく弟の面倒を見る私達を見て周囲の人達は「小さいお母さんね」と褒めてくれました。
それを私達は自慢に思っていましたが今思えば、もっとこうしてあげれば良かった、この事を小さい頃に教えてあげられれば良かった、こんな関わり方をしてあげれば良かった等々考えてしまいます。
父はマナーに厳しかったので、私達にゲンコツが降ってくることもしばしばありました。それらを当たり前のこととして弟に接してしまったことは特に後悔していることの一つです。

ですが、私は弟の母親ではありません。

姉と私は共に弟の世話をして二人で支え合って生きてきた運命共同体です。
その姉に言われました「こうしてあげれば良かった、と思うこと自体おかしいんだよ」と。

ハッとしました、そして笑いが込み上げました。その通りだよなぁと思いながら、一緒に涙も込み上げました。

まだ小学校にも通っていないような年齢の子どもが、自分よりも未熟な存在相手に情操教育を施せるわけがないのです。
よくよく考えれば当たり前のことなのですが、指摘されるまで本気で気付いていませんでした。

弟の世話をすることが嫌だった訳ではないのです。そもそも完全に私たちの責務という訳ではなかったし、さっき書いた通り楽しいことも沢山ありました。

ですが、弟が愛されるべき赤ちゃんであったのと同時に、その時の私たちだってまだ親からの愛が必要な子供だったのです。

言葉を話せない赤ちゃんと、自分で立って歩いて意思表示のできる子供がいれば、接し方が変わるのはしょうがないでしょう。
母は私達を子育ての戦力として頼りにしていました。

でも今なら分かります、保護者として扱うには私達はまだ幼かった。

当時の心境は流石に覚えていませんが、私達は弟の保護者となる事を期待されているのが分かっていたし、それが生存戦略でもあったのでしょう。

母のそばにいたいけれど子供として甘えることはできない、なら仲間として参加するほかないのだと。

私達の行動は半分強制で半分自主的でした。

褒められたい、期待に応えたい、こちらを見てほしい。
弟が可愛い、頼りにされたい、役に立ちたい。

私達が純粋に子供でいられた時間は長かったのでしょうか、短かったのでしょうか、分かりません。

でも私が今このnoteを書いていることが全ての答えなのだと思います。

私という人間の人格形成において弟の世話をしていたことは重要な意味を持っています、それが不幸だと考えているわけではありません。

でも、妊娠していて抱き上げるのは難しいとしてもせめて抱きしめてほしかった、頭を撫でて欲しかった、大好きだよと言って欲しかった、頼りになる姉としてではなく年相応の子供として接してほしかった、わがままを言わせてほしかった、遠出の際に私達が弟の面倒を見ること前提で話をしないでほしかった、学校行事の時は私を優先して欲しかった、頼んだことを弟の世話を理由に断り続けないでほしかった、もっと目を見て沢山話を聞いて欲しかった、イライラしながら敬語で接してくるのが怖かった、家を半ば強制的に追い出されて私と弟だけで公園に行かされるのが嫌だった、留守番の時に弟のことは心配するのにお姉ちゃん達は自分達だけで大丈夫だよね?と言われるのが嫌だったしそれを信頼だと捉えているのが苦しかった、あなた達は大丈夫だよねと期待されるのが辛かった、問題を起こしたりせず大人しくしていてくれるよねという期待と空気が、成長するにつれてそれに応えられなくなっていくのが本当に怖かった。

これは恨み言です、誰かに向けてと言うほどでもないただの恨み言です。

今更誰にもどうすることもできない、どうしてもらおうとも思っていない、ただ抱えていられないから言葉として形にしているだけの、今に繋がっている過去の話です。


両親は私を養ってくれます、家に住むことを許してくれて、お風呂に自由に入れて、電気が使えて、ご飯を用意してくれて、お菓子作りだってできます、食べたいものを夕飯に出してくれるなど日常のちょっとしたわがままも叶えてくれるし、誕生日はお祝いしてくれます。
嬉しいです、優しいです。

親の愛がなくても癇癪を起こさない大人になった今、私は自分とこうして向き合うことができています。
大人として扱われてきた環境と現在の自分の状態に釣り合いが取れてきたことの実感も大きいのだと思います。

たとえ今はもう抱っこしてもらえなくても、丁寧に淹れてくれるコーヒーに愛情を感じることができます。
たとえ今はもう頭を撫でてもらえなくても、役所の手続きを代行してくれることに感謝を持つことができます。

子供として愛された記憶は薄くても、家族として大事にされることはあります。
ろくに外にも出られず働けない大人になった私はその状況に甘えています、恵まれています。

決して不幸ではありません。

いつかきっと胸を張って、自分は幸福だと言える日もくるはずです。

冒頭に情緒的ネグレクトの事を書きましたが、ここまで読んでみて違和感を覚えた方や、もし逆に親近感を持ったという方がおられましたらぜひ調べてみてください。
心の整頓に役立つかもしれません。

以下はこのnoteを書くキッカケになった呟きや諸々です。


おわり。

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