告白
どんな分野にいても、責任の伴う仕事をしていると、自分の手に余るという状況に陥ることがあだろう。一時の難局という場合もあるし、自分の力の及ばない根本的な問題のために、困りごとが繰り返すという場合もある。キリスト教関係の仕事でも同じこと。クリスチャンは、敬虔で親切で利他的、言葉も行動も模範的、なんてことは、まったくない。悲しいほどにない。
仕事で困難に直面すると、当然、脱出の道を祈ってきた。ドラマチックな解決に至ったこともあった。でもほとんどの場合は、最悪の事態は免れて落ち着くべきところの落ち着いた、ということだったように思う。別にドラマを求めているわけではない、だから、それで十分だ。そして事業は安定した。私は失職を恐れる必要も給料の遅延を恐れる必要もなかった。そして、経済・生活の基盤が築かれていった。私は、ある意味、コスパ、タイパのよいデボーションを多くの人に提供して喜ばれてきた。でも、もう10年以上前から、とにかく疲れていた。うつになってはいけないと、気晴らしをしながら、だましだまし歩む毎日だった。
私の罪をあがなうためにイエスさまが十字架につかれたのだから、私は神の愛を信じている。けれども、現実的には、神は、私というひとりの人間以上に、私の仕事、つまり神のミニストリーを愛しておられると感じていた。私の祈りは聞かれる。それは仕事に関わることだから。
教会の偉いさんや職場の上司にあなどられても、無視されても、私の仕事の成果は上がっている。彼らは黙っているしかない。でも、失敗したら、それでおしまいではないか。私と一緒に悲しむ人はいないし、私をなぐさめる人もいない。家族はオロオロするだけだろう。スタッフは、冷たく離れていくだろう。そんな私の孤独に対して、神は沈黙しておられるようだった。「あんなやつ認めてやらない!」という人たちの薄笑いの沈黙や我関せずの沈黙と、神の沈黙と、いったい何が違うのだろう。私は忙しい日々に追われながら、そんな疑いをもって何年も暮らし、疲弊していった。その思いを神に隠していたわけではない。祈って打ち明けたこともあった。でも、私はその年月、自分の疑いにしっかりと向き合っていかったと思う。そんな暇はないと思っていた。私はとにかく忙しかったのだから。
今、退職して半年が過ぎ、私は自由になった。人間関係の断捨離も行った。そして、今、告白する。私は疑っていた。いや、今も尚、疑っていると。やがて疑わない日が来ることを願っている。
神さま、私にはやりたいことがあるのです。まだぼんやりしているけれど、どこから始めればよいかさえ分からないけれど、私にはやりたいことがある。あなたはすべてをご存知です。私は尋ねます。あなたは、道を示し、扉を開き、心を通わせる人を与えてくださいますか。私のやりたいこととあなたのミッションはつながっていますか。そのつながりを確信させてくださいますか。そうやって、あなたが、あなたのミッション以上に、私という人を愛していると知らせてくださいますか。それが今、私の切なる祈りなのです。
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