山や峠は色々な人生とすれ違う所なのか

 昨日、北杜は1年ぶりの大雪に見舞われた。
私はそぼふる雪を見ながら定期的にビニールハウスの雪を払う。そして十文字峠にもこの雪は降っているんだろうとふと考えていた。
雪は先人の足跡をあっという間に消し去ってしまう。あのか細くもしっかりとした峠路も今はきっと埋もれている。歩く人などいない。
そうだ、ついこの前、この短編の話をしたことを思い出した。これを久しぶりに読み、書きながら私は人がなぜ峠を歩くのか考えた。
いや、歩かなければならない場合もあったのだと気付いたのだ。

ーー その時の記憶がなぜこんなに深く脳裡に刻まれているのか、それは自分ながらわからない。と、友は言う。
 ある秋も半ば、それは十文字峠を梓山へとこえた時のことだった。
ちょうど山々は美しい錦繍の季節の衣裳をつけていた。白泰山のところまで栃本から登ってきたとき、私は峠路で幼児を背におぶった四十あまりの土地の人らしい男が、なにか紙を手に持ってうろうろしているのに行き会った。
彼は私らを見て、ほっとしたように安堵の面持ちを浮かべて、すぐさまこれから秩父大宮までの道程をたずねた。
その顔には深い憂愁と不安の色がただよっているのがすぐにみとめられた。
私らは道程のことを話してやった。
聞けばその人は金峰の下、川端下の村の者でその幼児が熱病にかかったので一刻を急いでいま医者のところへかけるというのだった。川端下からよい医者のいるところへゆくのには、千曲川沿いに佐久の岩村田へ出るよりも、この十文字をこして秩父大宮へゆくほうが時間にして早いと教わって来たのだそうだ。
けれど、その人はまだ一度もこの峠をこしたことがないので、村の人から半紙に絵図を書いてもらってやって来たのだった。
背中の病児は熱にうなされてたえず低い呻き声をあげていた。まさに峠は紅葉の真盛りの時だった。
父親は真赤に色づいた楓の小枝を一本折とって、それを片手でたえず背中の児の眼の前に振りかざしてあやしながら、挨拶をのこして足早におりまがりの多い峠路を降っていった。
その姿はすぐと路にかくれてしまったけれどもその秋の曇り日の山路の水のようにしんかんとした静けさのなかに、次第に薄れていくあの病児の低い呻きの声のみはしばらくの間私らの耳に残った。
友達はあのポオルフォールの「バラッドフランセエズ」のなかに歌われたような軽やかな、一つの哀情の胸に湧きあがるのを覚えると言った。
こんな小さなことながら私にとっても、それは十文字峠とは離れがたい印象としてまだ残っているのである ーー

大島亮吉 十文字峠
山 ー 随想 に収録

私がこの短編を見たのは山を始めてすぐのことで、岩村田や秩父大宮、そして栃本という美しい地名の響きに惹かれて地図を広げたものだ。

大島亮吉は当時の日本の登山家としては先鋭的な活動を行っていて彼らが辿ったルートはいまもなお決して簡単なものではない。
そんな彼らもこうやって十文字を初めとする里を繋ぐ峠越えを好んでやってきたことにぼくはとても好感を持てる。

そして人はたった一度、それもきっと数分しか話さないでその後一生会うことはない人とのことが暖かな印象として残ることがあるのだと、この読み物を通して感じる。

あの病児と、その子を背負う父親のその後の人生はどうなったのであろうか。
ちゃんと秩父大宮までたどり着いて医者にありつけたのだろうか。

あの日、僕が山頂で出会ってお互いの健闘を祈り会った、あのおじさんは元気か

誰にも会わないだろうと思いながら歩いた古い峠で出会った美しい女性は今どうしているのだろうか

前穂高の山頂から上高地まで、話しながらかけ降りた人は

病児を背負った父親には栃本から先もまだまだ遠い道程が待っているのに

十文字小屋での一夜、女将に大島の十文字峠の話をすると、
そうだね、あの人達はどうなったんだろうかねぇ、とぼくを見ながら続けて「私はあんたの今後が心配だよ」と言ってくれたことはずっと忘れないだろう。

峠はほんとに色々な人生が通りすぎるところだとぼくは思う。
もっとたくさんの人の峠越えの話を聞いてみたい。

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