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お伽の庭(おそらく中学3年生から高校1年生の頃に書かれた没小説の断片)

前書き

これが書かれた正確な時期を申し上げますと、歳がバレますが、2017年の10月頃から2018年の7月頃だったはずです。後で出てくる『9月19日(*ラスト2)』を最初に書き、その後空き時間に他の箇所を書き進めていました。あらすじは確か、現実と虚構が入り混じりながら、主人公が最後かなわぬ恋に自殺未遂して……みたいな感じだったはずです。たしか当時は、村上春樹の『ハードボイルドワンダーランド』とフィッツジェラルドの『グレートギャツビー』を読んで、デュアルに進む前衛的な物語構成と、男がキッショい感じの悲恋物に憧れていたような記憶があります。当時の自分では技量が足りず滅茶苦茶な出来となっていますが、方向性としてはそんな感じです。

たしか当時は、上の小説だけでなく思春期の男子中高生らしくいろいろなコンテンツに影響を受けていました。記事のサムネイルにもしているモネの『日傘をさす女』だとか、太宰や綿矢りさだとか、tetoの『9月になること』やandymoriの『everything is my guitar』だとか、当時ハマっていた物に影響を受けて、自分なりに解釈しようとしていた形跡がしっかりと残っています。また、「ほんとうと嘘の境界」だとか、「記憶の不確かさ」だとか、「僕とあなた」だとか、その後のポエムや小説で筆者が毎度のごとく擦っているモチーフがこの時点からくっきりと浮かび上がっていて、微笑ましい気持ちになります。

正直かなり滅茶苦茶な代物で、ともすれば黒歴史といっても過言ではないような作品です。筆者は崎山蒼志と同級生ですが、筆者がちょうどこれを書いていた時期と同じくらいに彼が日村の番組から彗星の如く登場し、筆者はおこがましくも「表現者」として彼にシンパシーを抱いていた記憶があります。いま振り返って、『五月雨』を聴いてから『お伽の庭』を読んだら、当時シンパシーを抱いていたことすら恥ずかしいほどの出来の差があります。しかし、それもまた、いま振り返れば恥ずかしくも愛おしい過去です。

もし筆者のファン的な酔狂な方がいらっしゃるなら、ぜひ読んでみてください。かっこと米印の箇所は、2024年の筆者が付け加えた補足説明です。そうは言っても恥ずかし過ぎて、長々と前置きをしてしまいましたが、それではよろしくお願いします。

本編

 母が、一度だけ語って聴かせた話だ。私はまだ幼く、傲慢にも世界を理解しようとしていた。私を取り巻くものすべては私で、紅葉は私のために色づいているのだと思っていた。アメリカ旅行で立寄った美術館。日傘をさし此方を見つめる女。私はそこに箱庭を見た。古い洋館に私一人、庭すべて紅葉の葉っぱが生い茂り、私は陽光が降り注ぐなか日傘をさしているーーーー

 興奮した私は母に告白した。世界って本当に私のものなんだね、と。母は笑みを向け、調律師がするように、首を横に振った

 世界の残酷さを呪った。世界から色が消えた。私は正しい。望めば色も消せる。母を憎んだ。それから一ヶ月後、母は交通事故で死んだ。
 これが原初の記憶だった。

無題(※おそらく断片的なメモだが、『日記』に流用するつもりだったのだろうか……?)
〇〇(※任意の地名)で一人、茹だるような暑さ。昨年より更に上昇した温度計は、晩夏というのに37.5を示している。耐えきれず〇〇(※任意のショッピングモール)に入る。外気が流入して意外にも生温い空気、特設ステージではアイドルユニット新時代マスターズが踊っている。一人の癖に何故かユニットと銘打っている。そうだ。目の前には天使がいる。


8月19日を思い出して

赤いハンカチがふきとばされて生の感覚を得た。アイドルユニット新時代マスターズ。宇宙船地球号。とりとめもない時代の手慰み。あ、六限のチャイム。家路、人生の路地裏で立ってた。君。波止場のカナリア。だから何だって言うんだい?人生かよ。

 可能な限り当時の心情を思い出し込めて書いたつもりではあるが、どうにも難しい。先日の夕食ですらよく覚えていない私にとってこの事業は非常に厳しいものだった。壮年すぎ、部屋の整理に精を出していた私が古びた紙の日記を見つけたのはちょうど一年前のことである。1ページ目は破られ、代わりに一葉の手紙が挿まれていた。


 宇宙の窪みの落し子です。
 私たちは瞬きあい、お互いを譲りあいます。表現し続けなければなりません。

とやけに達筆に記された手紙。





9月1日
 彼女が現れなくなった。快晴の土曜、夏休みが一日伸びたけど、もう9月1日だからな。夢見心地の新時代駅。皆の足音がはっきり聞こえる。女性アイドルの路上ライブ。17時35分発あの急行に乗ったその時、

あ、世界だわ。

9月2日

9月9日
 全ては幻だ。脳を抉り取る君は世界を勘違いしている。感覚を打倒して僕たちはユートピアを夢見なければならない。宇宙は繋がっていて、君は僕。時計のアラームがうるさい。人生の……

9月15日
秋の夜空だよ早く走ろ、僕は可愛い女の子。自分は置いてきたから、もうここから一人で歩いていかなければならない。僕一人のために今までありがとうね。僕だけでも生きるけど、やっぱり君と行きたいかな。僕は一人。眠りながら、喉元に刃を当てられていた。ノイズ、窪み、僕は僕だけのためにある。


9月16日
 9月になって世界が終わった。僕と私は破壊された。僕は一人では生きられない。自制を保てない。芸術が爆発ならば、僕はこのまま青い太陽に灼かれてしまう。望もうと望むまいとそこに向かって、死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。救けて。
 そもそも何故君はいなくなった?君が本当に他人なら納得できるさ。納得できる。だって君は僕なんだよ?いなくなる必要がないじゃないか。 
 物質と反物質。僕が生きるように君は死ぬ運命にあったのだ。だけど僕は君がいたから生きてこれた。
 人生は箱庭。お伽の庭。お日様燦燦降り、君は永遠に梱包されようとした。




9月17日
意外と飛び降りるのは簡単。エントランスから下を見て
世界が終わる。終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる終わる、ください。話したい。会いたい。一人じゃ生きていけない。一人じゃ行けない。あ、あ、ああ、無理。

9月18日

 僕の怪我はちょっとした打撲ですんだ。学校の屋上から飛び降りたわりに、木がクッションとなったようだ。
 こうして生きてられるのは、ちょっとした神の思し召しのように思われる。こうやって生き延びたからには、何か表現しなければならないのだろう。幸いにも構想は浮かんでいる。
 僕と私、を書くことにした。「僕」は日記として、「私」は便箋に残すと決めた。明日書くつもりだ。花火の動画を観て早く寝ることにした。





9月19日(※おそらく当時二つのラストが構想されていた?ラスト1が以下)

便箋:お伽の庭
 母が、一度だけ語って聴かせた話だ。私はまだ幼く、傲慢にも世界を理解しようとしていた。私を取り巻くものすべては私で、紅葉は私のために色づいているのだと思っていた。アメリカ旅行で立寄った美術館。日傘をさし此方を見つめる女。私はそこに箱庭を見た。古い洋館に私一人、庭すべて紅葉の葉っぱが生い茂り、私は陽光が降り注ぐなか日傘をさしているーーーー

 興奮した私は母に告白した。世界って本当に私のものなんだね、と。母は笑みを向け、こう言った。

宇宙の窪みの落し子です。
私たちは瞬きあい、お互いを譲りあいます。表現し続けなければなりません。

 世界の残酷さを呪った。世界から色が消えた。私は正しい。望めば色も消せる。母を憎んだ。それから一ヶ月後、母は交通事故で死んだ。

 やっと、消えられる。

9月19日(※ラスト2)
隅っこで、でも飲食禁止の立て掛け。こういうところに座って、ご飯を食べる想像をして、誰も来ないけど、けど、僕は逆らってやったぞって、そんな想像をしてたら、始まってた夏の物語。
君って言葉はなんかキライ、なんだか腐りかけのレモン、みたいな感じ、こーゆーの、使い古されてる、なーんてゆーのかな。だから僕は君を君って呼ぶことにしたよ。口紅をぐるぐるぐる、と回してるんだ。
そしたらね、君は僕のことを君って呼ぶんだ。仕返しかな、でも、とっても傷な感じ。
でしょ?君は君で僕は君なんだ。とっても傷な感じだよね。分かる?
うわはははは、なーんて笑うよ。げさげさ笑ったよ。だって僕は僕だもん。君の方が僕だよね。
誰かに見られてる感じ、隅っこで優しくなってたらみんなの前に出されて震えるんだ。きれーでしょ。突然。
それで、君はやっぱり君だなあって思って、僕は君になっちゃった。げざげさ笑ったね。笑えるね。


楽しいね。おーしまい、

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