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北九州キネマ紀行【高倉健を「読む」編】小次郎役の健さんに父親が送った武蔵の絵〜映画「宮本武蔵 巌流島の決斗」


健さんの数少ない時代劇映画

北九州ゆかりの映画俳優、高倉健(以下健さん、1931-2014)は生涯に205本の映画に出演した。
そのうち時代劇は数えるほどしかない。
まげをつけるのが苦手で、似合わない」と出演を断り続けたという(キネマ旬報社「高倉健メモリーズ」)。

そのわずかな健さんの時代劇映画の中で、北九州と関係するのが、内田吐夢とむ監督の「宮本武蔵」シリーズ。
1961(昭和36)年から1965(昭和40)年にかけて5作が公開された。

健さんは武蔵のライバル、佐々木小次郎を演じ、5作のうち最終話の「宮本武蔵 巌流島の決斗」を含む3作に出演した(武蔵は中村錦之助)。

宮本武蔵(1584?〜1645)と佐々木小次郎(巌流)(?〜1612)は、ともに北九州・小倉とゆかりのある人物。
中でも、1612(慶長17)年に巌流島(船島)=山口県下関市=で行われた二人の決闘はよく知られている。

巌流島へは門司港から連絡船で渡ることもできる(運航日はご確認ください)


小次郎に散り際の美学あり

小倉城(福岡県北九州市小倉北区)には武蔵と小次郎のモニュメントがあり、碑(誠心直道之碑)にはこうある。

宮本武蔵にとって小倉は最も長く滞在したゆかりの地である。
細川・小笠原両藩の時代を通して七年に及ぶと言われている。
武蔵は慶長十七年(一六一二年)四月小倉を訪れ、細川藩家老長岡(松井)佐渡興長を訪ね、佐々木小次郎との試合の許可を依頼した。

一方、小次郎は江戸初期の剣客(本名は佐々木巌流)。
越前の人とも、毛利氏の臣ともいわれる。
のちに初代小倉藩主・細川忠興に仕えたといわれるが、不明の部分も多い。

映画「宮本武蔵 巌流島の決斗」で、健さん演じる小次郎は、あっけなく武蔵に敗れる。
しかし、その姿は何とも凛々しく、散り際の美学を感じさせる。

小倉城にある小次郎と武蔵のモニュメント

自分がピエロになったみたいだった

「宮本武蔵 巌流島の決斗」の公開時、健さんは34歳。
フィルモグラフィー的には、「日本任侠伝」や「網走番外地」といった人気シリーズが本格的にスタートし、スター街道を駆け上がっていく時期にあたる。

ただ、健さんは映画俳優になりたくて、なった人ではなかった。
健さんは俳優になりたての頃(東映入社は1955〈昭和30〉年)の気持ちをこう明かしている。

僕は生まれて初めて、顔にドーランを塗られた日、ポローッと涙が出たよ。
何か自分がピエロになったみたいでね。
身を落としたという想いが胸をいたのかな。

高倉健「想SOU  俳優生活五〇年」

勘当状態で故郷を後にした

ドーランを塗られ、身を落とした気持ちになったのは、健さんが九州の男だったこととも関係しているのかもしれない。

健さんは明治大学を出たあと、本当は貿易関係の仕事に就きたかったという。
しかし、就職難で、いったん現在の北九州市にあった実家に戻り、採石業を始めていた父、小田敏郎氏(1975年に死去)の仕事を手伝っていた。
しかし、健さんは再び上京する。

このままではダメになっちゃうんじゃないかって気がして。集金した金を持ってたんで、そのまま汽車にとびのっちゃった

「高倉健メモリーズ」〜「高倉健、自らを語る」

そして、ひょんなことからスカウトされ、東映に入る。
しかし、父・敏郎氏は‥‥。

僕が映画俳優になると決めた時、父は激怒した。
川筋の男にとって、俳優は女々しい職業だと思えたのだろう。
役者軽視の気風きっぷが色濃く残っている土地柄だった。
勘当された状態で、僕は故郷を後にした。
音信不通の親子になった。

高倉健「想SOU  俳優生活五〇年」
父と子の思いは、すれ違った

「川筋の男を絵に描いたような父」

敏郎氏は旧海軍の軍人で、のちに宝珠ほうしゅ山(現在の福岡県東峰とうほう村)の炭鉱に勤め、労働者を取りまとめる仕事をしていたという。
健さんは敏郎氏について「想SOU  俳優生活五〇年」の中で
気風きっぷが良くて物言いが荒い、川筋かわすじ(筑豊の炭鉱街)の男を絵に描いたような父だった」と述べている。
敏郎氏は体格も良く、若い時は素人相撲の四股名しこなも持っていた。
健さんを愛情いっぱいに育てたようだ。

息子が出演する映画を見ていた

川筋の男ーー。
筑豊や北九州には「川筋気質」と呼ばれるものがある。
筑豊の炭鉱から採れる石炭の輸送路でもあった遠賀おんが川に由来し、気性は荒いが義理人情に厚い‥‥といったニュアンスで語られることが多い。

健さんが俳優になると聞き、激怒した敏郎氏だったが、そこはやはり父親。
健さんの映画は見にいっていたという。

武蔵作とされる絵が届く

そんな健さんが「宮本武蔵」に出演したのは、先述の通り、本格的にスター街道を歩み始めた頃。
この時、健さんの元に敏郎氏からある物が届く。

内田吐夢監督の『宮本武蔵』に出演が決まったとき、父から一幅いっぷくの絵が送られてきた。
宮本武蔵が描いた「鍾馗しょうき」の絵だった。
〝監督にでも、差し上げたらどうか〟という短い手紙が添えられていた。
〝そんなベンチャラできるか〟僕は憎まれ口を呟き、そのまま倉庫にしまって忘れていた。

高倉健「想SOU  俳優生活五〇年」

「鍾馗」は武蔵作とされる絵。
髭をはやし、剣を手にした人物が水墨画のようなタッチで力強く描かれている。
中国の伝説上の鬼退治の神とされ、邪気を払う力を持つという。

不器用だった父と子

健さんは結局、この絵を表装することにし、表装ができるまでの間、鍾馗の写真を眺めていたという。

かっと見開いた大きな目。
一文字に結んだ唇。
右手にかざした抜き身の剣。
仁王立ちしている鍾馗の姿が、父の面影に重なった。


撮影の無事を願って、この絵を僕に託したのかな。
父なりの精一杯の激励のつもりだったのかな。
父の想いを、当時は知ろうとしなかった。
不器用な親と子は、すれ違う想いが多いのかもしれないね。

高倉健「想SOU  俳優生活五〇年」

「宮本武蔵」シリーズを撮った内田吐夢は、日本の映画界を代表する監督の一人。
健さんを「森と湖のまつり」(1958〈昭和33〉年)や「飢餓海峡」(1965〈昭和40〉年)でも起用している。

敏郎氏は、息子を重用してくれた内田監督に謝意を伝えたかったのかもしれない。
そして、健さんの回想からは、敏郎氏への感謝の気持ちが伝わってくる。

父と子はいつまでたっても父と子

紀行ガイド:小倉で武蔵・小次郎を感じるなら

小倉の手向山たむけやま公園には、宮本武蔵と佐々木小次郎の碑がある。

手向山公園にある宮本武蔵の碑

武蔵の碑は、武蔵の養子、宮本伊織が建立したもの。
一方、小次郎の碑は作家・村上元三が、新聞連載小説「佐々木小次郎」の完結を記念して旧小倉市に寄贈したもので、1951(昭和26)年に建立された。
「小次郎の まゆ涼しけれ つばくらめ」(「つばくらめ」はツバメの古称)という村上の句が刻まれている。

小次郎の碑。武蔵の碑の近くにある

手向山公園は小高いところにあり、ここからは関門海峡が一望できる。
そこに浮かぶ巌流島も見える。
この公園は春になると、桜が美しい。
それが散っていく様は、映画で武蔵にあっけなく敗れた健さん演じる小次郎の姿と重なる。

桜が美しい手向山公園。写真左下付近に見えるのが関門海峡

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