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北九州キネマ紀行【若松編】アフガニスタンで倒れた医師・中村哲さんの根に張った「花と龍」の〝教え〟
祖母は「花と龍」主人公の妻
アフガニスタンで人道支援に尽くし、凶弾に倒れた医師・中村哲さん(1946−2019)は、今なお多くの人たちの記憶の中に生き、その功績が色褪せることはない。
中村さんと、北九州・若松が舞台の映画「花と龍」はつながる。
映画に登場する実在の人、玉井マン(主人公・玉井金五郎の妻)は、中村さんの母方の祖母。
この祖母の教えが、中村さんの倫理観の根に張っていた。
その教えは
弱者は率先して庇え
職業に貴賎はない
どんな小さな生き物の命も尊べ
‥‥‥
井戸を掘り用水路を造った医師
中村さんは1946(昭和21)年、福岡市生まれ。
九州大学医学部を卒業後、パキスタンのペシャワールに赴き、ハンセン病を中心とした貧困層の診療にあたった。
中村さんは隣国・アフガニスタンの無医地区でも診療にあたった。
アフガニスタンでは、旱魃による水事情の悪化で犠牲者が続出。
中村さんは、まず清潔な飲料水が必要と、現地の人らと井戸を掘り、灌漑用水路の建設に汗を流した。
その結果、多くの人の命が救われた。
しかし、中村さんは2019年12月4日、アフガニスタン東部のジャララバードで武装集団に銃撃され、亡くなった。
73歳だった。
映画「花と龍」の原作は火野葦平の同名小説
映画「花と龍」は、若松(福岡県北九州市若松区)出身の芥川賞作家、火野葦平(1906〜1960、以下葦平)の同名小説が原作(読売新聞に連載)。
葦平の父・玉井金五郎と、母・マンを主人公にした実名小説で、主な舞台は石炭の積み出し港として栄えた明治から昭和にかけての若松。
裸一貫から、石炭を陸から船に積み込む沖仲仕の組合「玉井組」を興した金五郎とマンの波乱に富んだドラマを描いた。
この小説は、岩波現代文庫(上下2巻)などで読むことができる。
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(玉井組事務所跡の説明文)
北九州・若松が生んだ芥川賞作家、火野葦平の父玉井金五郎と母マンが、明治39年(1906)に設立した石炭荷役請負業「玉井組」の事務所があったところです。
金五郎とマンをモデルにした葦平の小説「花と龍」は、荒々しくも情のある世界を描き、映画、舞台、テレビなどで数多く上演される代表作の一つになっています。
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映画は何度もリメイクされた
映画は、新聞連載終了翌年の1954(昭和29)年に公開されたのが最初(「花と龍 第一部 洞海湾の乱斗」「花と龍 第二部 愛憎流転」)。
この後、繰り返しリメイクされた。
これらの映画で玉井金五郎を藤田進、石原裕次郎、中村錦之助、高倉健らが演じた。
妻マンを山根寿子、浅丘ルリ子、佐久間良子、星由里子らが演じた。
何度も映画化されたことは、いかにこの小説が大衆の心をつかんだかの表れだろう。
(「花と龍」に絡む高倉健と火野葦平の物語をこちらの記事で紹介しています)
「物心ついた頃の記憶に現れるのが若松である」
中村哲さんの母・秀子さんは、葦平の妹。
つまり、中村さんにとって葦平は伯父、玉井金五郎は祖父にあたる。
中村さんは福岡市で生まれ、その2年後には両親の故郷・若松へ(当時は福岡県若松市)。
若松にいたのは小学1年生のときまでで、その後は現在の福岡県古賀市(当時は古賀町)に移った。
中村さんは著書「天、共に在りーーアフガニスタン三十年の闘い」(NHK出版)の中で
「物心ついた頃の記憶に現れるのが若松である」と述べている。
そして
私の知る祖父・玉井金五郎は、すでに老齢で、往時の血気盛んな様子はなく、好々爺の印象しかない。
子供には分からぬ事情で、金五郎は本宅を離れて別宅にいたので、祖母(金五郎の妻)・マンとの付き合いの方が深かった。
とも。
玉井金五郎の写真を見ると、心なしか中村さんと似ている(金五郎は1950〈昭和25〉年に死去)。
葦平の三回忌に亡くなったマン
玉井マンは1884(明治17)年、現在の広島県庄原市生まれ。
19歳の時に家を出て、下関(山口県下関市)で沖仲仕をしていた時に玉井金五郎と知り合い、1906(明治39)年、若松で金五郎と「玉井組」を興した。
この年に長男・葦平(本名・玉井勝則)が生まれた。
マンは葦平を含めて10人(男3人、女7人)の子供を産み、男は大学、女は旧制高女に進ませた。
これは当時として大変なことだったという。
葦平は1937(昭和12)年に出征後、小説「糞尿譚」で芥川賞を受賞。
さらに「麦と兵隊」など〝兵隊三部作〟を書いて、国民的なベストセラー作家になった。
マンは葦平らが戦争に行っていた時、慰問の手紙を書くため、平仮名を覚えたという。
マンにとって、葦平は自慢の息子だったに違いない。
葦平は1960(昭和35)年1月24日、53歳のときに自死。
そして、マンは1962(昭和37)年の同じ1月24日、玉井家で葦平の三回忌法要が執り行われていた最中に息を引き取った。
77歳だった。
「ずいぶん面白いこともあった」
中村さんは、若松にいた頃のことをこう回想している。
映画(「花と龍」)の中では、まるで任侠伝かヤクザ映画のように描かれたこともあって、玉井一家やその親族がヤクザ者と誤解され、ずいぶん面白いこともあったが、悪い思い出はない。
また、週刊誌の取材に対しては、こう語っている。
私は(子どものころ)玉井家の実家にいることが多かったので、文筆業で一家を支えていた和服姿の伯父(葦平)の姿をよく覚えています。
生活の中心だった玉井の家は大きな邸宅でした。
普段から労働者や流れ者風の男たちが行き交い、子供がうじゃうじゃといました。
例えば私が兄だと思っていた兄弟が、よくよく聞いてみると従兄弟だった、なんてことも珍しくない。
三世代、四世代が入り乱れて住んでいましたね。
弱者は率先してかばう
マンは、中村さんに深い印象を残した。
この若松での生活で、印象的に記憶しているのは、強烈な「軍国の母」であった祖母・マンの存在感と、伯父・火野葦平という作家の生き方であった。
マンの生家は広島の郷士で、武家の風貌があってしつけには厳しかった。
若松が空襲されたときは、皆を疎開させて一人残り、「竹槍で焼夷弾を叩き落して家を守った」という神話が生まれたほどである。
(中略)
この祖母の説教が、後々まで自分の倫理観として根を張っている。
弱者は率先してかばうべきこと、職業に貴賎がないこと、どんな小さな生き物の命も尊ぶべきことなどは、みな祖母の教説を繰り返しているだけのことだと思うことがある。
玉井家での日々がよみがえる
中村さんが命を奪われたことは、残念でならない。
中村さんの最期を想像する。
もしかすると、脳裏に浮かんだことの一つは、あの懐かしい若松の風景だったのではないか‥‥。
中村さんは、週刊誌に次のような言葉を残している。
(アフガニスタンの)農業を中心とした共同体の中で、お年寄りが大切にされているのも、生まれ育った若松市や古賀町を思い出させます。
そして土木作業を行うスタッフと暮らしていると、あの玉井家や実家での日々が胸に甦ってくるのです。
その意味で私にとって、アフガニスタンは懐かしい場所であるのかもしれません。
中村さん、マンさんに会えましたか。
あなたは、きっとマンさん自慢の孫。
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そのほかの参考文献
河伯洞記念誌「あしへい」創刊号 特集「花と龍」(葦平と河伯洞の会)
1962(昭和37)年1月25日付朝日新聞北九州版「〝女傑〟の急死 悲しむ市民」
1962(昭和37)年1月25日付毎日新聞小倉版「『花と竜』の玉井マンさん、葦平氏三回忌に大往生」
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