北九州キネマ紀行【若松編】高倉健さんが学徒動員されていた地にまつわる不思議な話
貨車から石炭を降ろす作業をさせられていた
2014年に83歳で亡くなった映画俳優、高倉健さん(以下、健さん)は、戦時中だった中学生の頃、学徒動員されていた。
健さんは当時のことを、次のように書いている。
健さんが学徒動員されていたのは、若松。
若松は九州の最北端、福岡県北九州市にあるまち。
八幡製鉄所(現日本製鉄)は当時、兵器製造の要である鉄を生産し、米軍の攻撃目標になっていた。
「湾」とあるのは、洞海湾のこと。
湾を挟んで南側に八幡製鉄所、北側に健さんたちが働かされていた若松があった。
若松港は、石炭を積み出す一大拠点だった。
健さんは当時、九死に一生を得るような体験もした。
健さんたちが学徒動員されていたのは若松の、現在のJR二島駅の近くにあった工場だったという。
(これは、健さんの同級生で、共に学徒動員されていた方から伺った)
二島にあった記念碑
その二島の辺りを歩いてみた。
今はもう、もちろん当時を偲ばせるようなものは何もない。
辺りは二島工業団地となっていて、さまざまな工場や会社が立ち並んでいる。
健さんはこの辺りで、戦争で日本が勝つことを信じ、日々、学徒動員の仕事に汗を流していたのか‥‥。
歩いていると、「二島緑道」という、整備された公園のような通路があった。
ここに「記念碑」があった。
何の記念碑だろう。
読んでみると、建立したのは「昭和六十年四月」(1985年)とある。
(これを書いている2023年時点で38年前ということになる)
記念碑には「由来について」とあり、おおよそ次のようなことが書かれていた。
二島工業団地は、かつて石炭産業の拠点で、戦時中は国力増強、戦後は産業復興の原動力として、日本経済発展を支えてきた
ここは旧日本炭砿という会社の跡地でもある
その後のエネルギー革命で、石炭産業は閉山を余儀なくされ、その火を消した
現在、二島工業団地は、北九州市のモデル工業団地の指定を受け、道路や公園、緑地なども整備され、産業活動も年々発展の一途をたどっている
ここに当時の興盛に思いをはせ、今後益々の発展を祈念して、当地で事業を営む有志が願ったので碑を建立した
経営者の急死や死亡事故が続発した
これだけを読めば、そうなのか‥‥と思う程度である。
ところが、この碑のそばに、「記念碑(慰霊碑)の由来」と書かれた看板が立てられていた。
看板は2001(平成13)年に「二島工業団地 慰霊碑・安全祈願世話人会」が建てたとある。
これを読むと、不思議なことが書かれていた。
その不思議な話の部分を要約すると‥‥。
石炭産業が衰退し、1964(昭和39)年、ここにあった炭坑が閉山した
その跡地に工業団地が造成されたのは、1970年代の後半だったが、当初は問題があった
それは立地後の一時期(昭和50年代の半ば頃)、各所で経営者の急死や死亡事故、不測の倒産などが続発し、大きな不安を引き起こしたことだった
原因を調べるうちに、長年の旧炭坑経営で、下請け企業で働いていた坑夫の人たちや外国の人たちが事故や災害で亡くなっていたことがわかった
これらの人たちの霊に対する供養が疎かになっていたことが原因ではないかという声が巻き起こった
これを機に1985(昭和60)年、慰霊碑(記念碑)を建立し、この地の炭坑殉職者への慰霊祭と、団地内企業の安全祈願祭を実施した
これが碑の起源である
以来、毎年4月、慰霊祭と安全祈願祭が行われている
慰霊碑は公共地に建立されたので「記念碑」となっているが、その本体は「慰霊碑」である。碑の中には地蔵像が安置されている
慰霊祭、安全祈願祭が行われるようになってからは大きな事故もなくなり、現在は百数十社が稼働する北九州市で屈指の工場団地として、順調に発展してきた‥‥
多くの犠牲があって今がある
記念碑とは別に、補足のような形で、こうした説明看板が建てられたのは、史実をきちんと伝えるためなのだろう。
経営者の急死とか死亡事故の続発、などといえば、オカルトめいた話のようにも聞こえるが、わたしは、そんなこともあるのかもしれない‥‥と思う。
健さんと接点を持つ地にあった、記念碑と説明の看板。
健さんが学徒動員されていた頃も、「坑夫の人たちや外国の人たち」が亡くなる事故は日常的にあっていたのかもしれない。
そして「外国の人たち」とは、おそらく朝鮮半島出身の人たちのことだろう。
健さんの若き日を訪ねた小さな旅。
健さんの物語からは少し脱線したけれど、多くの犠牲があって、今があることを改めて思った。
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