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貧乏から這い上がり起業。そして破滅。二度目の起業の節目に人生を振り返る。金田卓也の生い立ちについて。

みなさんこんにちは。
株式会社アルゴリズムというスタートアップで取締役副社長をしている金田卓也と申します。

僕は13歳の時に個人事業主としてビジネスの世界に足を踏み入れてから今年30歳を迎えます。仕事をはじめてから17年という歳月が流れ、東京に来て10年という時間が過ぎた節目でもあるので、自分のこれまでの人生を振り返って、自分の行動原理、目指すものをしたためたいと思います。

まだ僕にあったことがない人はもちろんのこと、僕と一緒に仕事をしてくれている方に対して、僕のことを解像度高く理解してもらう一助になればと思い作成することにしました。

初めましての人へ(かんたんな略歴)

29歳。株式会社アルゴリズム取締役副社長(創業者)。慶応経済学部卒。父親を8歳の時にガンで亡くし、以降母子家庭で育つ。13歳のときには個人事業主として活動を始める。19歳で創業した会社を従業員30人規模まで拡大するも大失敗し、投資を受けた5000万円を溶かし、四畳半のアパートで再創業。

二回目に始めた自動車メディアを事業売却し、会社を清算。その後ベルフェイスの創業期にCMOとして参画し、シリーズA直後まで在籍。複数の会社のSEOのアドバイザーやWeb系事業のM&A支援を手がけた後、26歳でアルゴリズムを創業し、副社長に就任。

現在のアルゴリズム社は医療系領域のDXを手掛けるスタートアップとして、
オンライン診療のシステム開発や医療機関向けのマーケティング支援を手掛けています。

はじめに

現在、僕は人生で2回目の起業に挑戦中です。

起業を通して、多くの仲間との出会いや別れを経験しましたが、今一緒に働いてくれているチームメンバーは僕にとってかけがえの無い仲間であり、仲間と少しでも多くの喜びを分かち合い、見果てぬ景色を共に描いていきたいと思っています。

そして、組織の拡大と共に、事業に埋没してしまう日々の中で、自分自身が歩んできたバックグランドや行動原理、価値観を共有することが重要だと感じ、この記事を書くにいたりました。

なぜ自分のバックグラウンドを伝えたいのか

これまで17年間ビジネスをしてきた中で、何度も人との相互理解に苦労してきました。その理由として、幼少期からの経験が、自分の仕事に対する独自の価値観、姿勢に影響を与えているからだと思います。

それが具体的に何かといえば、僕の場合は

・仕事には自己犠牲的な努力が付きもの。努力しないのは甘え
・結果を出せなければなんの意味もない
・勝利することが全てで、負けることは人生の敗北を意味する
・どんな手を使ってでも絶対に勝つ

そんな言葉に表されるような価値観です
(言葉にすると、すごく怖いです)

そして、こういった価値観を掲げる僕と仕事をするなかで、一緒に働いてくれている仲間から

「なんだか怖い人みたいなイメージがある」
「なぜそこまで勝つことに執着するのか」

という率直な想いや、問いを受けることが増えてきました。

「起業家ならビジネスで勝つことを目指すのは当たり前だ」というのは模範的回答でしょうし、スタートアップやベンチャーなんて世界に足を突っ込んでるものなら、誰でもが同じことを思っていて当然と考えていました。

しかしながら、僕自身すらもこういった言葉を自己洗脳のように自分に言い聞かせていた節があり、この働き方には薄々苦しさを感じていました。

「結果を出すことや勝利すること」に対して並々ならぬ執着をもっていることには自分でも自覚があり、自分自身が圧倒的に自己犠牲的な努力を払うからこそ、相手にも同等のものを求めてしまったり、相手の努力や背景を理解できない不寛容さを露呈してしまってチームマネジメントに失敗してしまうなど、これまで自分の人間性が故に招いてしまった失敗が多々あったことも分かっていました。

そんな中で、自分がどのような経緯を経て、なぜこのような価値観、考え方の人間になったのかを、もう少し深ぼって振り返ることで、僕という人間に相対した方にとって少しでもその理由を分かち合うことが出来ればという思いと共に、僕自身が自分の軌跡を振り返り、この記事を通して自分自身と向き合うことで、本記事の最後に記載するような「在り方像」への転換を図っていきたい決意の証として、このエントリーを残したいと思うに至りました。

特に一緒に仕事をする機会に恵まれた多くのビジネスパートナー、自分を信じて賭けてくださった投資家の皆様、そして、こんな不完全で未熟な人間である僕を見捨てず、一緒に戦ってくれている仲間のみんなへ、少しでも僕という人間のバックグランドを伝え、よりよい未来に向かって一緒に歩んでいくことが出来ればと切に願っています。


すべてが幸せだった小学校3年生まで

幼少期(幼稚園~小学校3年生まで)は、快活でリーダー気質があり、小学校のヒエラルキーにおいても比較的上位で何不自由ない生活を送っているような子供でした。

しかし、小学3年生のときに父親がガンと発覚し、半年の闘病生活も虚しく亡くなってしまったことで僕の人生も転機を迎えることになりました。

クラスからのいじめと、貧乏に対して何もできなかった無力さ

親父が亡くなって母子家庭になったとき、母親は当時46歳。
ド田舎で働き口も少なく、十数年就業経験がなかった母にとって仕事を得るということにも大変な苦労があったと思います。

惣菜作りの工場、市役所の調理場、介護食の宅配など、複数のパートを掛け持ちし、朝は4時や5時から起きて働き、僕と4つ下の妹の生活を守りながら、夜遅くまで働き詰めに働き詰める生活。

祖父母は全員他界しており、誰も頼れる身よりがおらず、「人様に迷惑をかけることを良しとしない」母親の価値観もあって、生活保護を受けることもなく、ど田舎での母子家庭の生活は困窮を極めました。

その時期と時を同じくして、小学校ではクラス全体でのいじめが始まり、学校にいくと教室でハブられ、廊下を歩くとすれ違う女子には「キモイキモイ」と罵倒され続ける日々。でも、親を心配させないためにも、学校にはいかなければいけない。日々行き帰り道で泣きながら学校に通う。そんな地獄のような状況が中学校まで続くことになります。

そして、家庭では母親と「生活保護や行政の支援を受ける」ということについて何度も喧嘩寸前の話し合いを重ねましたが、母親は頑なに人の手を借りることを良しとせず、「自分たちはまだ頑張って働けるのにお世話になるのは申し訳がない」とひたすら孤独に苦闘することをやめませんでした。

その当時、僕は母親を助けたい一心で、「恥も外聞もかなぐりすてて、生活保護でもなんでも受ければいいじゃないか」「なんでこんな目にあってまで苦労しなくちゃいけないのか」と母親にものすごく怒った記憶がありますが、それは裏を返せば、自分の力では現状を変えられないことへのやるせなさ、無力さ、悲しみ、、、そういったものがないまぜになって、一番大切だった母親に怒りという形でぶつけてしまったのだと思います。

今でこそ振り返ると、こうした在り方は母親なりの善なる倫理観に基づくものだったと思うのですが、この時幼かった自分は、ただただ苦労し、社会的弱者となってしまった母親の背中を見て、

「貧乏が悪いんじゃない。全部、僕が力を持っていないから悪いんだ。」
「弱いやつが損をする。弱いからこんな目にあうんだ」
「自分がもっと力を持っていれば、誰もこんな目にあわないのに」
「(母親のような)お人好しが損して負けるなら、俺は奪ってでも勝つ側に回ってやる」

と幼心に、「奪われるぐらいなら奪い取る側に回ってやろう」と固く決心したことを覚えています。

当時は、まるで闇落ちした猗窩座のような心境でした

このときに心の中に芽生えてしまった、「負けることは悪」「奪われるのも自分が弱いから。すべては自己責任」という考えは、20年経った今、少しづつ癒えていますが、それでも仕事で結果を出して他者より優れたものにならなければと思う狂気に近い渇望や、結果を出し続けなければ自分の全存在を肯定できない という不安・苦しみとして、自分の中に根深く生き続けています。それに向き合うことが今の自分にとって、新しい成長の課題でもあります。

闇からの救いを求めてネットに没入。
アフィリエイターとして起業した中学生

多感な人格形成期に、こんなドロドロした闇深い経験をしてしまい、学校でもいじめられたままで迎えた2004年、当時中学1年生だった自分は、近所のおばちゃんがくれたPCの虜になり、インターネットの世界にのめりこみます。

現実は惨憺たる状況の中で、Web2.0の黎明期だった当時のインターネットは、自分にとって閉塞した世界における唯一の希望の光でした。中学校でも相変わらずいじめは続いていましたし、部活動も一切馴染めず、夏には退部してしまった自分はますます引きこもりに近い状態になる中で、インターネットではYahooチャットに入り浸り、匿名で「25歳のサラリーマン」という設定で、チャットの住人たちと語りあうことで、唯一、現実の自分と切り離された世界で、他者と正常に交わることができ、心の安息を得ることができていました。

そんな中で偶然出会った情報商材(ネットサーフィンをしているときにYahooオークションの「情報」というカテゴリを見てしまった)にまんまと騙されてしまう事件が起きます。まだリテラシーも知性も十分に備わっていない子供が、一発逆転のチャンスを信じて全財産をはたいて買った商材は、クソの役にも立たないような内容でした。ただ、その時の僕には、騙されたという自覚はなく、むしろ「自分がこうしてお金を払ったのであれば、その分誰かが得をしているんだ。それなら俺も得する側に回ってやろう」と考え、それをきっかけとしてインターネットビジネスにのめり込んでいきます。

ポイントサイト、ブログ、メルマガ、すべてに挑戦するも何一つうまく実らず。

そこから、中学校2年生の秋までは延々と泥の中で藻掻くような日々が続きました。金無し、ノウハウなし、知性なしと、三重苦を背負って、すべてを独学で見様見真似で勉強し、真似をして、実験を重ねていくという日々。

唯一時間という資源だけが膨大にあったこと、そしてもう現実の世界で失うものはなにもないという諦めにも近い境地。

ただ、不思議なことに、「何かを生み出そうと試行錯誤をする時間」自体は苦痛ではありませんでした。今まで何者にもなれなかった自分が、初めて何かを創造する活動を行えていることが楽しかったのでしょうし、何よりもそれをしている間は現実のつらいことすべてを忘れることができた時間だったからです。そんな状況で、お金を稼げないまま試行錯誤をする日々が1年半も続きました。しかし、ついに努力が実る日がやってきます。

独学と1年半の挑戦の果てに、ついに黎明期だったSEOを活用し、HPアフィリでの収益化に成功

あらゆる負の感情を原動力にしぶとく粘り続けていたお陰もあり、中学校2年生のときには、あらゆるインターネットビジネスを一通り経験し、(金もないので)メモ帳でHTMLのコーディングを覚え、自分でホームページやライティングまで一通りできる程度にはリテラシーが備わっていました。

そんな中で、当時アメリカからやってきたGoogle検索と、その検索エンジン対策を目的としたSEOという言葉が日本ではじめて流行はじめたかどうか というときに、僕は空前絶後のゴールドラッシュに乗り合わせることになります。

当時のSEO対策は、今では笑い話となるほど古典的、チープなもので、無料HPを大量に制作して相互リンクをするだけで上がるというもの。ただ、それさえ出来れば誰でも検索上位にあげられてしまうような伝説的な時代でした。

これまで2年間の独学で、SEOを駆使したアフィリエイトに必要なスキルセットを図らずも手に入れていた僕は、点と点がつながるように、アフィリエイトでの収益化にみるみる成功し、売上をあげるようになっていきました。

「そのスキルで世の中の役に立つことをしなさい」母親からの助言と、母子家庭を支援する財団を作りたいという夢を掲げた15歳

子供ながらに、突然の大金を稼げてしまったこと、そしてそれがすべてASPの管理画面上で増えていく数字でしかなかったことで、お金を稼げているという現実感は乏しく、しばらくはまるで数字を増やすゲーム化のようにアフィリエイトに没入する時期を過ごしました。

現実感がなかったからこそ、これが本当のことであるとは自分にも思えず、親にも黙って活動を継続しており、延々と毎月100本以上を超えるホームページの量産を続けていました。(この時、毎日起きてアフィリエイトをして、学校にいって、帰ってきてアフィリエイトをして という生活を延々と繰り返し続け、PCのやりすぎで視力が急激に悪化、2.0から0.01の超近視になってしまいました笑)

そんな中、ついに、自分の信金口座にASPからの報酬が振り込まれ、お金を引き出したことでそれが本当であったことをはじめて生生しく自覚し、親にお金を稼いで溜めていたこと、生活の足しにしてほしいことを告白しました。

ステレオタイプだった親には、子供がこんな大金を稼げることはありえないと最初は全く理解してもらえませんでした。万が一にも子供が稼げたとしても、それがまっとうな方法であるということ、アフィリエイトというビジネスであることも理解できず、オレオレ詐欺かなにかの片棒を担いでいると勘違いし動揺していた親でしたが、度重なる対話の果てに最終的には(内容はわからずとも)全うに稼いだものであることは理解をしてくれ、

「あんたには才能がある。それを活かして、世の中の役に立つことをやりなさい」

という言葉を贈ってくれました。この時を堺に、自分は将来、何者になろうとしているのか というのを真面目に考えはじめ、最終的には自分が憧れていた学研創業者の古岡秀人さんのように「経営者として大成し、母子家庭を支援するための財団を創ろう」という思いを心に秘めるようになりました。

子供ながらに、お金を稼ぐことの圧倒的な面白さ、そして何者でもなかった自分がはじめて何者かになれたような感覚を与えてくれたビジネスは、自分の生涯のライフワークであると確信したのです。

国立工業高専への入学

そんな激動の中学時代を経て、「経営者になる」と立志した自分が次に考えたのは、経営者として必要となるようなまともな教養を身に着け、社会になめられない学歴を身に着けたいという思いでした。

そんな未来像に必要な選択肢として国立の工業高専は当時の自分に大変魅力的でした。

・高専は偏差値が高いのでクラスのいじめっこ達は入ってこない
・国立なので学費が安い
・就職率100%のため潰しがきく
・5年制まで修めれば国立大学工学部の3年次編入への道がある

なんだかんだで一番最初の理由が大きかった訳ですが、学費や今後の展望を考えたときにも、高専以外の選択肢は家計的にも許容できず、いずれにしても高専を専願として必死の受験の末に入学することに成功しました。

ここは自分の居場所ではないという思いが限界に。高専3年生で慶應大学の受験の決意。

なんのキラキラした展望もなく、超現実主義で選んだ高専でしたが、実際に入って感じたことは圧倒的な居心地の悪さでした。

まず、自分自身が理系エンジニアという職業に対しての適正がなく、やることなすことになんらの面白みも見いだせず、入って半年で来る場所を間違えたと直感しました。

もちろん、高専で学ばせてもらったこと、大学レベルの高度なカリキュラム、高い能力を持ち合わせたクラスメイトなど、高専が与えてくれる環境はあるものにとっては理想郷のような場所であることも事実ですが、中学生のときに感じてしまった桁違いの興奮、打てば打つほど数字が伸びるエキサイティングな毎日、お金を稼ぐという経験の虜になってしまった自分にとっては、退屈で苦痛を感じる毎日でした。

ただ、勉強をしなければ、大学3年次編入が実現できないことも事実。
当時、ビジネスをするからには何が何でも東京に行きたいと思っていた自分にとっては東京大学の工学部編入を目標とするからには勉強は疎かにできず、理系学問や基盤設計、プログラミング、つなぎを着ての溶接といった工学授業を延々と朝から晩まで繰り返しては、家にかってネットでアフィリエイトに没頭する という日々が続きました。

そんな中3年生にもなったある日、嶺井さんという一歳年上の沖縄高専制の方が、高専3年で中退をして慶應SFCに入学するというブログ記事を運命的にも見つけることになります。

当時、嶺井さんのブログで高専をやめるという選択肢を知り、人生の新しい可能性を感じた自分は、同じように3年生で高専を中退し、大学受験ができるという道を真剣に歩むことを決心します。

一般教養は皆無。受験偏差値40代から6ヶ月の一点張り逆転受験へ

しかし、そんな出会をしつつも、時はすでに高専3年生。
一般の受験生ならもう受験範囲の勉強を終えて、すでに受験対策に入っていてもおかしくない梅雨明けの時期に、自分は初めて受験勉強を真面目に考え出すことになります。

「正直、間に合わない気しかしない」
自分自身でもそう思い、丁半博打の気持ちでしたが、一度なりとも東京の空気を見てみたいという思いで、はじめて訪れた慶應のオープンキャンパスで、まさに慶應大学に一目惚れをしてしまいました。

「自分がいるべき場所はここだ、自分の人生はこの道に進むことでしか開けない」
そう腹の底から確信でき、戻ってきた自分はそこからわずか6ヶ月という限られた時間の中で初めて全国の高校生と横に並んで受験勉強というレースに参加をすることになりました。

発狂寸前、半年の猛勉強。座りすぎて切れ痔になり、流血するほど勉強した果てに、悲願の合格を達成

一般の高校生が受けるそれとは全く違うカリキュラムで3年間を過ごしていた自分にとって、受験勉強は完全なるゼロスタート。このときも、周りは誰も受験せず、田舎なのでまともな受験塾もなく、ノウハウなし、仲間なし、という絶望的な状態からのスタートでした。

高専では、受験するということ自体が、高専を否定することであり、授業を欠席することもできず、高専のカリキュラムを毎日8時間、週5でこなしながら、帰ってきてから受験勉強する、そしてアフィリエイトで学費を稼ぐという3足のわらじを履くような生活がはじまりました。

昼間、回路を組み立てる授業に英単語の辞書を持ち込み、必死に内職をして、夜には帰ってきて、初心者向けの一番やさしい英文法の勉強からはじめめる。そんな日々を2ヶ月すごし、初めて受けた代ゼミの全統模試では偏差値40代を出す始末

当時の模試
余裕のE判定を受けたのが高校3年生の9月

どう考えても間に合わない、どう考えても受からない。

そんな思いが脳裏をよぎる中、発狂寸前の精神状態で半年間の勉強を続け、受験本番もあまりの緊張に気絶するかという土壇場まで追い込まれましたが、その努力が実を結び、なんとか慶應経済学部に合格するという悲願を達成し、晴れて上京するチャンスを掴むことができました。

そして、振り返れば、
中学生のときのアフィリエイト、そしてこの受験勉強のときの成功体験があったからこそ、自分は大いなる勘違いをしてしまっていました。

「圧倒的努力をすれば報われる」
「それが実を結ばなかったのは己の努力が足りないから」

本来は努力したからといって報われるとも限らない世の中で、自分は何度も幸運に恵まれてチャンスを掴むことができただけなのに、それを自己犠牲的努力を払ってき自分を正当化したい、世の中を見返したいという思いとがいっしょくたになってしまって、相手の努力や気持ちを顧みずに、結果を出せなかったのは努力が足りないから という自己正当化の歪んだ考えを持つようになってしまったのです。

こうして幼少期の闇深い原体験と社会を見返したいという負の感情に、努力が報われるという体験を2度も重ねてしまったことで、屈折した人間性が育まれてしまうわけですが、尊大なプライドと鼻っ面は、上京後の初めての起業とその失敗によってグチャグチャに潰れることになりました。

大学入学。2年の下積みを経て起業。そして破滅。


上京後、こうした自分のバックグラウンドを人に対して語る機会が増え、多くの人に「それってすごい」と承認される機会が加速度的に増えていきました。

今まで、自分が生きてきて外部の人に初めて承認された経験はとてもうれしく、そして賞賛が重なる一方で「もしかしたら俺は特別な人間なのかもしれない」という勘違は日に日に多くなり、エゴとプライドは増長し、傲慢で相手の気持ちを理解できない人間に成り下がっていってしまいました。

そんな中ではじめての起業に挑戦したのが19歳。
そこからの5年間は、今まで膨れに膨れたエゴとプライドを破壊するには十分すぎるほどの体験でした。

詳細は後述の記事に譲りますが、結果的に自分の愚かさ、非道さ、そういったすべての負が、一斉に爆発し、当然の報いとして人生ではじめての挫折を経験することになってしまいました

スタートアップの光と闇。22歳にして5000万円を資金調達した男の1年 -前半

正しい生き方がわからないこと、そして成功したかどうかというモノサシでしか自分の価値を測れない苦しさ

「お人好しのバカが損して負けるなら、俺は奪ってでも勝つ側に回ってやる」

幼少期にもってしまった歪んだ考え、負の感情を原動力に、ひたすらに誰よりも勝とうと、何者かになろうともがいていた自分の生き方は何かがおかしい、間違っているのだと教え諭される出来ごとになりましたが、だからといってそれ以外の生き方がわからない、どうしたら幸せになれるのか知らないというのは新しい苦しみでした。

濁った水で育った魚が清涼な水では生きていけないように、それ以外の生き方を知らない自分にとっては、この後の新しい仲間との出会いまで、生き方もわからず苦しみの渦中でさまよい続けることになります。

自分が身を置くスタートアップの世界は、特に競争が熾烈で、日夜華やかな結果を出した人がスポットライトを浴びる世界です。

若くして何かを成し遂げたものが「最年少」や「最短」といった冠言葉とともにフィーチャーされる世界で、何も結果を出せなかった落伍者の自分にとって、「成功できなければ無価値」「世間においていかれる」という恐怖は本当に辛いものでした。

そもそも何者でもなかった自分が東京という街で、囃し、奉られ、少しの成功で何者かになったかのように勘違いしていただけだったのが、転げ落ちただけなのに。文章にすれば滑稽ですが、この社会についていかないといけないという無言の圧力や、日々追い立てられるような、行き詰まる感覚は今も拭えません。

こうした苦しみの中で、闇一辺倒だった人生に光を与えてくれるような出会いに巡り合うことになります。

現社長との出会い。再起業を経て、彼が与えてくれた無条件の受容

そんな出口のわからない迷路をさまよっていた自分に転機となる出会いが生まれます。

26歳の時に、先輩の経営者に仲介されて、大学の起業家サークルの後輩だった勝俣篤志と出会います。

彼は当時22歳。まだ起業経験もなく、これから旗揚げをしようという中でしたが、縁とは不思議なものでその後彼と共に(僕にとっては2度目の再起業)アルゴリズムという会社を立ち上げて、3年間を共にしてきました。

26歳から29歳までのこの3年間を通して、ビジネスでの苦難と幸福、悲しみと喜びは語り尽くせぬほどあれど、この3年間で一番彼が僕に与えてくれたものは相手を無条件で受容するということでした。

負の感情を原動力に人生を走ってきた僕と対比して、彼はまだ見ぬものへの好奇心とワクワクを原動力に物事のなかにあらゆる善の可能性を見出す天才でした。

そして彼は、相対した人を決して否定しません。それぞれの人に対して、色眼鏡をつけずに、そしてその人が築いたものではなく、その人そのものを見ようとしてくれる姿勢。

そうしたものを22歳で心得ている彼の人間性に魅了されたことはもちろんですが、僕自身に対しても初めて社会のモノサシではなく、僕をそのままの僕として受容し、無条件に向き合ってくれる彼に対して大いなる尊敬を持ち、ありのままの自分で生きられることの喜びを発見することができました。

なぜ、僕ではなく、彼が社長なのか。

幸いにしてアルゴリズム社は、紆余曲折あれど、着実に事業規模を拡大するとこに成功し、これまでに総額7億円近い資金調達を実現してきました。

そして、多くのVCや投資家との面談の中で、何度となく「なぜ、勝俣さんが社長なのか。経験もスキルも豊富なあなたが社長をして、彼が副社長をすればいいのではないか」という問いを受け続けました。

その問に対して、いろんな言葉を返してきましたが、その一番は、まさに彼が僕に与えてくれた「人を無条件で受容する」という生き方であり、考え方であり、それによって「仲間と共に人生を歩む」ということはこんなにも楽しいものなのだということを彼が教えてくれたからです。

苦しみの中でもがいていたところに、(彼は意図していないでしょうが)その考え方に触れて人生が前向きに変わっていた僕のような人間がいるように、多くの人に彼の人生への在り方、考え方、それそのものを体現するものとして社長として、ビジョナリーとして、僕たちの向かう先を一緒に描いてほしい。

そんな思いで、僕と、そして今の仲間たちは「勝俣社長が社長じゃなきゃ、アルゴリズムじゃない」と心底思っています。

そして今日

こうしたバックグラウンドを生きてきた自分にとって、26年の歳月が積み上げてきたものは、地層のように深く重く分厚く積み重なっており、自分の人格形成の土台となっているのも事実です。

高速で走っていた車が急に止まって方向転換できないように、
まだ自分の中では、成功や結果で存在価値を図ろうとするモノサシが根深く、事あるごとにすぐにそれが顔を出してきて

「努力しないと無価値になってしまう」
「結果を出せないならなんの意味もない」

と囁いてきますし、そうした生き方がもたらしてくれた正の側面(努力の果てに身に着けた知識やスキル、経験)を知っている僕には、その生き方を急にやめることは大変むずかしい課題でもあります。

この豊かな時代に、表面的な経歴だけを見れば人より恵まれた人生を生きてきたように見える自分が、時折、なぜ狂気にも近い「成功への渇望」や、「結果を出すこと」への異常な執着を見せるのか、その行動原理、背景は、これまでに書いてきたような人生の積み重ねがあったからこそです。

これを伝えたからといって自分の行動が正当化されるわけではないことはもちろん分かっていますし、このストーリー自体を自己弁護の都合のいい言い訳に使いたいという思いもありません。

僕自身、その苦しい生き方からどう抜け出せばいいかわからず、より良い生き方を模索して苦しんでいたからこそ、社長が与えてくれた無条件の受容や、喜びを原動力として生きること、ワクワクするものを探求していくという在り方と出会えたことに感謝していますし、そういった在り方を個人や会社で体現したいというのが今の一番の理想です。(少しづつ努力をしていますが、まだまだ道半ばの状態です)

今の会社やメンバーに想うこと

これまでに述べてきたような在り方と出会ってから、少しづつ自分の中にも変化が生まれてきている実感があります。

一昔前の僕であれば、何をするにも、勝つか負けるかばかりだったなかで、この在り方を意識したことで得られたものは大きかったです。

特に、2021年においては、自分ひとりの力だけでは到底なし得なかったような大きな成果をチームとして実現することができ、仲間となにかを成し遂げることの楽しさ、頼もしさ、力強さを身にしみて感じました。

個々人の仕事の経験、スキル、戦闘力みたいなものはたしかに厳然と存在する一方で、それはどこまでいっても個としての数字に過ぎません。仮に、一人ひとりが苦手や偏りを持っていても、それを得意とする仲間が支え、チームが心を一つに、共通の目的に結集したときの強さがどれほど偉大かをはじめて目の当たりに勉強させてもらいました。

突き抜けた先にあるものを見たいから、走り続ける

そういったことを教えてくれたチームの仲間には深い感謝を感じています。

そして今は、そういった在り方の中心にいる社長と、「どこまでいけるかを見届けたい」という想いが強いです。

もちろん、自分の良さを殺すことなく、チームに貢献する形で、それをさらに研ぎ澄ましていきたいという思いは強く、仕事に対して真剣に向き合うということは続けていきたいと思っています。

人生の転換点で大変な努力や苦労があったからこそ、
人生を賭して学んだこと、得たものがあったからこそ、

今これだけの面白い環境でワクワクするものを探求出来ているのも事実。
その時に感じた、「何かを実現していく楽しさ」や、「昨日まで出来なかったことが今日できるようになる確かな成長の喜び、実感」

そういった努力の「正の側面」を少しでも良い形で仲間に情熱のエネルギーとして伝えていくことができればと思うと共に、僕がこの場にいるからこそ出来る「見果てぬようなチャレンジ」を、アルゴリズムでは実現していきたいと思っています。

人生を振り返った時に、この場で捧げた時間がなにものにも代えがたい思い出となるように。

そして、自分が社長の在り方に共鳴し、人生を前向きに進めていくことができたように、この場で僕と人生を共にした人に、少しでも僕の在り方の良い側面を分かち合い、共鳴していくことができれば、僕やアルゴリズムという会社がこの世界に存在していた一つの意義を果たせるのではないかと思っています。

お金を残すのは銅、事業を残すのは銀、人を残すのは金

このような名言がありますが、人の行動原理、背景に存在する在り方、すなわち理念や思想を残すことができれば、人はその残された理念や在り方に共鳴し、次代にその在り方をつないでいくことができると思っています。

だからこそ、僕はこの会社で、突き抜けるほどのチャレンジを通して、
関わり合う仲間に、これまで述べてきたような在り方・理念を、社長と共に残していくことが自分の役割だと信じて、これからも事業や会社を頑張っていきたい所存です。

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