2022/05/25

最近ナラタージュという恋愛小説をちまちまと読み進めているのだがこれがびっくりするくらい肌に合わなくて、西武新宿線でスマホの文字を追いながらううう…と呻き声を上げる男になっている。まずもって展開がシリアスで重い恋愛をテーマにしているのが俺に向いていない。というか恋愛小説が向いていないかもしれない。俺は26歳になるが恋も愛もその全容を全く掴まずにここまで来れている。
この小説は簡単に説明すると教師と教え子の禁断のLOVE…を描いているのですが禁断のLOVEすなよ。としか思わないので恋愛における感性が終わっている。禁断のLOVE...したいですか?すなよ。恋愛で人生を壊すな。酒とか糖分で人生を壊せ。この手の小説は青春小説に分類され少年少女の恋愛に一喜一憂するのを楽しむものだが、大人になった影響か少女側ではなく教師側の視点で物語を見てしまう。未成年との恋愛...?すなよ。恋人繋ぎすなよ。キスすなよ。添い寝すなよ。すなよ、すなよ、すなよ...。すなよの連続で物語に全くのめり込めない。作品に合う合わないはあるので読むのをやめたらいいだけなのだが続きは気になってしまう。すなよ...すなよ...けど...そこまで愛し合ってるなら...しなよ...となってしまう。良い小説です、ナラタージュ。


LOVE、又は愛に関しては本当に無頓着で死とか光、風のことはよく考えるが愛についてはほとんど考えたことがない。俺が愛という存在を初めて知ったのは『劇場版ATARU THE FIRST LOVE & THE LAST KILL』であり、俺は中居正広から愛を教わった。現実の中居正広は愛など知っているわけがないので、フィクションの中の中居正広が俺の愛の師匠になる。

愛とは物語の中で描かれているように情熱的でエネルギッシュなものとは理解しているのだが自分の中の愛はそのような特性は帯びていない。また、愛とは炎や嵐に例えられるが俺の中の愛はそんな形はしておらずどんな形かというと...おまんじゅう?おまんじゅうみたいな形をしています。激しさや熱とは対極の位置にあるおまんじゅうが俺の中の愛として君臨しています。落ち着けて安心してじじいばばあが好むようなそんな愛の形を俺は持っている。世間一般の愛のイメージとの矛盾、その大きな溝が俺を愛へと考えを走らせることにブレーキをかけているのかもしれない。


愛の話はウケがいいのだが俺は愛の話が苦手なので愛の話はこれまでにして愛と二大巨頭である死について考えることにする。死を考えるときに死に方とか死んだ後の意識を考えることはほとんどなくて(死んだら無だと思ってるので)、俺が死んだ後にも続いていく世界をよく想像する。石黒正数の「それでも町は廻っている」の主人公が死んだ話はほんとに俺がいつも想像している死のイメージ通りのことが描かれていて、主人公の死によって周りの人間(町)はどう廻っていくかの描写は読んでいてほんとに心地がいい。

俺が死んで悲しむ人のことを考えるのはしんどいので俺が死んだ後に俺のことを知ろうとしてくれる人のことを考える。俺は自分の好きなものをSNSに流したり他人と共有することは少ないから、俺の印象はひどくぼやけたものになるだろうなと思う。米澤穂信という小説家が好きなこと、稲葉百万鉄という実況者が好きなこと、元気がない時はエレファントカシマシを聞いて元気を出していること、そういう俺を構成する俺に一番近い部分は誰にも知られることはなく俺は死んでいくのだろう。俺に一番近い人には知っていて欲しい気もする。


愛ってこういうことかもしれないです。

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