こっち側で生きていく

初夏。午前0時25分。俺は彼氏であるユウジの帰りを家で待ちながら鼻歌を歌っている。すると電話がかかってきてユウジかなと思うが着信は兄からだった。

「起きてるか?」

「出たってことは起きてる」

「相変わらず可愛げがないな」

「何の用だよ」

「あーうん。さっき母ちゃんと喧嘩してさ家出て行ったからまたお前のとこ行くかもしれん」

「は?また?」

「別にいいだろ。とにかくそっち行くかもしれんから母ちゃんきたら保護しておいてくれ」

「なんで喧嘩するんだよ。どうせまた下んないことだろ。お互いにいい加減さ」

「うるせぇなお前も。いいから頼んだぞ」

プツっと電話が切れる。葛飾の実家に住んでいる兄は未だに母とよくケンカをするようでそれで嫌になった母が家を飛び出し少し離れた八広に住む俺の家までタクシーで来る事ももう何度目かのことだ。実家には母と兄そして兄の嫁さんが住んでいて父はもう10年くらい前に亡くなっている。こういう構成だから母のなんとなくの居心地の悪さも分からないでもない。兄の嫁は別に悪い人じゃないのだけれど、それでも母にとっては他人でそれでいて完全な味方ではないだろう。

母も兄も気が強く土地柄的に下町の江戸っ子ってやつだろうが俺から見れば兄はそもそも人間としての器量が小さく小心者ですぐ酒に逃げるようなやつだ。今思えば父も同じような人間だったかもしれない。そんな父母、そして兄を経て生まれた俺も彼らと似たようなところもあるかもしれないが、俺はゲイで社会と相容れず生きていてなによりくだらない事で母と喧嘩したりしない。これだけで俺は兄とは血が繋がっているがかなり違うはずである。

俺は京子さんに電話をする。
「はいもしもし」

「あ、亨ですけど」

「あ、亨さん。さっきはあの人がいきなりごめんなさい。私の方でお義母さん探しておきますので〜」

「すみませんいつも。よく行く飲み屋の方は探しました?」

「道すがら見てみたんですけどいなかったです。お財布も持ってないのでツケに出来るとこ以外は行かないと思うんですけど」

「だとしたらタクシーでこっち来てるかもしれませんね」

「けどそうすると亨さんにまたタクシーのお金払ってもらわないといけなくなっちゃうので…」

「むしろその方がそこら辺を歩いてるよりは安全ですよ」

「けど柴又から八広だと高いじゃないですか」

「まぁそれくらい払えますよ」

「亨さんお仕事頑張ってますもんね…」

「いやそういう訳じゃ」

「この前借りたお金もすみません。すぐお返ししますので」

「ああ全然。とりあえず夜も遅いので京子さんも家に帰って下さい」

「う〜ん。わかりました。すいません」

「また母がこっち来たら連絡します」

「はい。お願いします」

初めて京子さんと会った時、彼女は白いワンピースに艶やかな長い髪が似合っていてそれは美人な人がうちの兄とよく結婚するものだと驚いた。彼女の笑顔は優しくて、なんだかそれだけでウチのダメな兄を良い方向に連れてってくれるのじゃないかと期待してしまった。しかしどれだけ清潔、自信、高い志を持っている人であっても兄の弱さ、ひいては人間の弱さには勝てなかった。京子さんが兄の顔面をペタペタと触って触って触っていくうちにうちの兄が高橋一生みたいになってお似合いの夫婦になるなんて事もなく、いかに完璧に見えた京子さんにも人間の弱さがあって、2人は普通の夫婦になって母との仲も特筆することない普通の関係性に収まった時に俺は酷く落胆したものだった。

人間の弱さを変える事なんて誰にも出来やしなくて、誰かにできない事は誰にとっても永遠に出来ない事なんて往々としてあるわけだ。俺の京子さんへの期待は間違った期待であって、むしろ今、母を探してくれてるという事実だけで俺は彼女に泣いてお礼を言うべきかもしれない。

1時を少し過ぎて電話が鳴る。兄でも京子さんでもなくユウジからだった。

「もしもし」

「ただいま〜!」

「今どこよ」

「青砥〜」

「乗り過ごしてるじゃん。タクシー乗って帰ってきなよ」

「嫌だ〜!タクシー嫌だ〜!トオル迎えにきてよ〜」

「嫌だよ」

「なんでそんな事言うんだよ〜迎えに来てよ!絶対!」

そこで電話は切れる。
また青砥か。
ユウジは港区でサラリーマンをしており飲み会が終わった後は何故かいつも八広を寝過ごし青砥で起きる。飲み会終わりは毎回これであり、タクシーを使いたがらないユウジを青砥まで迎えに行った事は何度もある。青砥からうちまで2千円くらいで来れるのだからタクシーくらい使ったらいいのにと毎回言うのだが、ユウジは「寝過ごしちゃって使うタクシーの2千円は5千円なんだよ。予定外の出費って5千円なの」と意味の分からない事を言って煙に巻く。

はぁ、とため息をついてから俺は携帯と財布と自転車の鍵を持ちサンダルを履き外に出る。外は初夏とは言えもう生ぬるい空気を纏っている。
マンションを出て、駐輪場に行き自転車に跨って曳舟川通りに出る。そのまま北に向かう。少し歌う。
「ぱぱんぱかぱかー あの人のママに会うためにー ワッデュワー 今ひとり列車にのおたのー たそがれせまる 街並や車の流れー 横目で追い越しーてー」

荒川と綾瀬川にかかる新四つ木橋の手前で電話がかかってきた。俺は自転車を止めてペダルから足を下ろして電話に出る。

「お前今どこだよ」

「外」

「なんで外にいんだよ。家いろって。母ちゃん来ちゃうかもしれねぇだろうが」

「うるさいな。ユウジ迎えに行ってるんだよ」

「雄司くんはどうにでも帰って来れるだろ。いいから家にいろって」

「なんでお前にそんな事言われなくちゃいけないんだよ。そもそも母ちゃんと喧嘩したお前が悪いんだろうが」

「うるせーな。母ちゃんの面倒は俺が見てんだからそんなのお前に言われる筋合いないだろ」

「何言ってんだ。俺はお前の家に金貸してんだろうが。それくらい俺に言う権利あるだろ」

「結婚もせずぷらぷらしてるから金が余るんだよ。俺は結婚して母ちゃんの世話してんだから金もかかるんだよ」

「はぁ?ぷっつーん。あったまきた。足は南。なんだよ俺が善意で貸してる金をよ。俺が金貸してるからって兄貴に偉そうにしたか?いつまでに返せよって言ったか?それをお前余るだろって。貸しがいがねぇよ。じゃあ返せよ貸した金」

「うるせぇな。俺は長男としての責任を果たしてんだよ。そもそもお前がそんな風に生まれてこなければな」

「論点すり替えるなよ。そんな俺の貸した金にやいやい言うなら返せよ。明日返せよ」

「お前こそ論点すりかえ」

「明日返せよ!!!!」

そこで俺は電話を切る。携帯を荒川に投げ込んでやろうかと思うがそんな事したところで俺は明日川で携帯を探すかauに行くハメになるだけだろう。俺は携帯を投げる代わりに橋の欄干を弱目に蹴る。んっ!と言いながら欄干に前蹴りをかますが当然のことながら橋はびくともしない。川を覗き込む。昼間は賑やかな荒川沿いも真夜中の川は黒々として何も映さない。
兄には俺がゲイだと言ってあり、母には言ってない。京子さんは、知ってるかどうかも分からない。兄は俺がゲイである事を婚約者に言うのだろうか。分からない。
ゲイにとって、少なくとも俺にとって家族とは最も身近な他人であり家族だからってなんでも話すわけじゃない。それよりも彼氏のユウジとかゲイの友達の方が俺という人間を知っている。

俺の生まれた葛飾はこの荒川を超えた先にあり、つまり橋の向こうは俺にとっての故郷だが同時に帰りたくない場所だ。だから俺はわざわざ荒川よりこっち側の土地に住みあっちには出来るだけ行きたくない。もうこっち側で生きていく術を得てこっちの生活に慣れてしまった。けどだからと言ってあっち側を完全に切り捨てるわけにはいかず、困っていた兄夫婦には金を貸し、母のたまの逃げ先として家に受け入れる。それにユウジもたまに寝過ごして荒川よりあっちに行ってしまうのでそれに迎えにいかなければならない。
またペダルに足をかけ橋を渡る。国道6号線沿いを走り京成本線にぶち当たったら右に曲がり青砥駅を目指す。

すると青戸団地のあたりで反対の歩道を歩くユウジを見かける。信号を渡ってユウジの前に躍り出る。

「遅いよ」

「なんでだよ。結構飛ばしてきたよ」

ユウジはかなり酔っており今にも吐きそうな感じだ。

「タクシー乗って帰ろ」

「いいよ。吐いちゃうかもしれないし。トオルだけ帰って」

「それじゃ迎えにきた意味ないだろ」

ユウジは酔うと一瞬気分が上がってすぐ気持ち悪くなる。そして気持ち悪い時のユウジは少々めんどくさい。いつもはそれを俺があしらうのだ。けど今日はさっきの兄のこともあって俺も気分が良くなかった。だからユウジの言うことに突っかかってみたくなって、ユウジは帰れと言うけれど俺がほんとは帰らないからこんな事を言うのだ。じゃあほんとに帰ったらどうなるんだろう。そんなことを思ってしまった。

「じゃあ帰るよ。ほんとに帰るからね」

ユウジは道の植え込みの端に座って顔を伏せて手だけひらひらしている。ユウジはいつものことだけど、俺はなんだかいつもと違った。

俺は無言のまま自転車に跨りそのまま走り出した。後ろにいるユウジがどんどん小さくなっていく、途中「トオルー」と呼ぶ声がしたけど決して振り返らなかった。
そうしていつしかユウジは見えなくなってしまって6号線にぶち当たったので今度は左に曲がって南下し荒川を目指す。橋を渡る。あっち側からこっち側に戻ってくる。ユウジを置いて。なんだか凄く悪い気がしている。けどやってしまった。俺はまたあっち側に何かを残してこっち側に来てしまった。帰り道は鼻歌を歌う気にはなれなかった。

家の前に着くとタクシーが停まっていて母がいた。

「あんたこんな夜中にどこ行ってたんだい。あ、それよりタクシーのお金払ってくれよ。あたし財布持ってなくて」

俺はまずタクシーの清算をカードで済ます。

「コンビニ?」

「いや、ユウジを迎えに行ってた」

「雄司君いないじゃない。どうしたの?」

「置いてきたの」

すると母は少し黙ってから

「あんたね。父さんはそんな事決してしなかったよ。あたしがどんなひどい事言っても置いてけぼりにするなんてそんな事しなかったわよ」

母はまっすぐ俺の目を見て言う。母にはユウジは一緒に暮らすだけの友人と言っていたが、なぜそこで父の話が出てくるのか。でも確かに記憶の中の父は優しかった。兄と同じように器量の小さい人だったが優しかった。兄も普段はもっと優しいのだ。今の俺よりは。

「迎えに行ってきな。今すぐ」

母は走って大通りに出てタクシーを止める。

「ほら。早く行きな。あたし、あんたの家の前で待っとくから」

あまりにも鬼気迫って言うものだから俺は言う通りにするしかなくおずおずとタクシーに乗り込む。

「青砥の団地のとこまで」

少し恰幅のいい運転手は帽子を少し下げ、車は発車した。そうしてまた荒川を渡る。
さっきユウジと別れた近くでフェンスに寄りかかって寝ているユウジを発見する。
肩に触れてユウジを起こす。ユウジは目に涙をいっぱい溜めてごめんなさいごめんなさいと泣きついてきて、こちらこそごめんね、ユウジ、と俺は背中をさする。そして落ち着いてきたユウジをタクシーに乗せてまた家に帰る。母の待つ荒川のこっち側に。

母とユウジはお風呂に入って着替えて、母は特に俺たちの事情を聞かず兄の愚痴を少し言ってからせっかくだから3人で寝ましょうと興奮気味に言ってきた。
リビングに来客用の大きい布団を2つ並べて3人で寝る。ユウジ、俺、母。川の字になって寝る。ユウジは母と少し俺の昔話をした後寝てしまった。母は兄の悪口をまた少しだけ言った後に「あんた、雄司君ともっと仲良くしなさいよ。こんな良い子珍しいんだから」と言う。俺は暗闇の中で頷きだけで返事をする。

2人の寝息の中で俺は朝を待つ。明日、兄には謝ろう。俺と兄は基本的に仲が良いのだ。だからこそ金だって貸してやったのだ。
ユウジと母に挟まれて俺は荒川が朝日に照らされるのを待つ。
結局寝れなくて俺はベランダに出て、四つ木橋の方を見やる。相変わらず川は黒々としていて、それにかかる橋は深夜でも車が行き交い街灯が橋を照らしていた。

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