2022/11/07

1人の時間を上手に過ごせる人は「教養」のある人だと誰かが言っていたけど、休日に夜遅くまでゲームをして昼過ぎに起き、起きるや否やまたゲームをし始めこれを繰り返すのは果たして「教養」があるかと問われれば中々首肯しがたいところではあるが、自分の好きなことをしているのだから一番人間らしいとも言える。好きなことをしているのを人間らしいと捉えるのはそれぞれの人生観によっては批判を生みそうな表現ではあるが、実際死んだ顔して仕事をしている週5日間に比べたら確かに人間らしいと言えるのかもしれない。

この前会った人に「ブログを見る限りでは孤独に生きているようにしか見えない」と言われたのだが、人間生まれてから死ぬまでずっと"独り"なのはそうだろうと思うと同時に俺は独りではありません、偶にではありますがちんぽも他人にシコってもらえている人生です、という涙ばかりの反論も湧いてきた。

他人と過ごした時間を日記に書かないのは俺の性質であり、日記に型なんてものは無いのですが俺は他人と過ごした時間のことを日記に書くのはなんだかその時間が楽しかったねと答え合わせをやっているようで気が引けるので他人のことはあまり書かないようにするスタイルを取っている。めんどくさい人だったとか臭かったとか、反対にめちゃくちゃ良い人であってもそういうのを日記に勝手に書くのは良くないとは思うし、それ以上に寂しくて、他人の視線を気にしていた感情を最高に楽しかったですと歪めて書くのはなんだか深刻な問題に触れるような気がするのだ。
料理の写真も撮らないのですがこれも「美味しかった」「ここへ行った」という事実を写真で残さなければ答え合わせ出来ないと思いたくなくて写真を撮らない主義ではあるのだが、こんなめんどくさい事を考えずに素直に写真を撮って他人と共有できればもっと別の場所に足を伸ばせるとも思っている。「美味しい」とか「可愛い」という言葉に限度があることも最近は自覚してきていて、「あそこで食べたお肉が美味しかった」と言っても「お肉」と「美味しかった」の間には距離があってそれを埋めるのが写真でもいいんじゃないかと思ってはいます。写真ってやっぱ便利ですよね、と今更の事を言うしかなくなっている。

なんにしろ自分が書いた文章は自分の為にあるのであって、これは誰の為に書いた文字列ですか?と問われたときに胸を張って自分の為ですと答えなければいけないと思っている。他人との時間の答え合わせの為に自分の文章を使うことはやはりダメです。文章には正直でいなければいけない。せめてこれだけは...と結婚指輪を質に入れられそうな人間が言うであろうことを常に思っている。

反対にTwitterでは他人の為に文字を起こしていることがあって、フォロワー(Twitterでは人間をこう呼ぶ)にウケてもらいたいというカスみたいな欲求で常に動いている。これも言ってしまえば自分の為ではあるのだが、日記の自分の為の文章とは大きく違う。日記は自分の為、SNSは他人の為という自分の中の分け方だ。行動の理由を他者に依存することは大変キモいことであると自覚はしているのだが、これがゲームと同じでやめられない。時流として承認欲求はある程度誰にでもあるものとして認められてきていて、反対にこうやって自分の為に記録を残すブログなどは廃れていっている。記録を残すことに意味はあるのでしょうかね。結局思い出せないことが増えてきて、その中で感じる後ろめたさはみんなどう処理しているのですか。シコって寝ていますか。シコってばっかですね、俺たち。

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