2023/09/19

しょうもない話ですが、エロいイベントがあると知るたびにもし自分がそのイベントに参加したらどうなるか?を想像するのが癖である。
巷ではこの前「巨根伝説」という巨根を見て見せて楽しむイベントが開かれていたらしいが、もし俺がそのイベントでちんちんを披露するちんちん人間、いや人間ちんちんとして爆誕していたら…。

こういった時、上手くコミュニティに参画できるケースとできないケースの両方を想像することが肝要である。上手くいく事もいかない事もある…これは世の常であるのでそれが巨根伝説であっても例外ではない。
一頻り他人のちんちんを見ることが出来た場合、まったく場に馴染めずちんちんを見逃した場合、他人の視線の中に生きる俺はとってちんちんに終始していると思われる事自体が赤面することではあるがそれは「巨根伝説」という共同コミュニティが幾分か和らげてくれるとしても、やはりちんちんを見せるのも見るのもそれに能動的になっている自分というものを想像すると恥ずかしい。だからこそこういったイベントに参加することは憚られるという結論にいつも着地するまでが俺の妄想のロードマップである。

貪欲な自分が恥ずかしいと思うようになってしまったのはいつからだったかを考えるとそれはやはり中学生の頃だったと思う。よくある斜に構えた感性に染まった俺はまったく楽をする為に貪欲さを恥としてここまでやってきてしまった。他人が貪欲な事についてはまるで何も思わない、むしろ尊敬するところではあるが自分が貪欲であるとまるでそれが慎ましさという正しさの反対であると勝手に脳内で変換してしまう。貪欲さと慎ましさはまるで違う地平にあるというのに、いつだって俺という人間ちんちんは自分勝手かつ深く考えるのをやめにしてそこで立ち止まるのだ。

貪欲さが嫌というか貪欲であると他人に思われるのが嫌なのだが、これを知り合いに言うと9割の確率で「他人はそんなにお前のことを見ていない」と言われるが実際そんなことはないと思う。なぜなら俺はめちゃくちゃ他人を見ている。駅でラーメン屋でイベント会場でめちゃくちゃ他人を見ている俺は「他人はそんなこと気にしてない」という意見に首肯しづらいところがある。
全ては俺が包茎なことが関係しているが、しかしサルトルは「地獄とは他人の事だ」とも言っている。
100年も前の哲学家が他人との関わりの苦しみを嘆いているのを見ると共感、納得、賞賛の雨嵐を送りたくなるがサルトルが悩んでいた事は巨根伝説でちんちんを見せる気恥ずかしさではないだろうし、しかしどうしたって他人という地獄と関わらなければ生きていけない世の中なのだから頑張ってちんちん見せられるようにならなければならない。

ここまで書いてきた事を術式反転して申し訳ないですが、ちんちんを見る、見せることなんて実は下らなくて本当に大事なことは全然別のところにあるなんて事も分かってはいる。いますが、今だけはこういうところに拘らせて下さいね。大人になってもつまらんことばかりなのですから。

ちなみに、俺はちんちん少し大きいです。
さようなら。

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