筋肉が偉いのであってあなたが偉いわけではない

彼と出会ったのは新宿2丁目のゲイバーであって、彼は20歳だか22歳だかはたまた18歳だか、いまいち年齢は分からないがゲイバーで働いているのだから20歳以上なのだろうがあそこの店長及びママと言われる男はかなりやり手として知られていて、客寄せパンダを店に招きこむためならば都条例だか刑法だかはひょいと一足飛びで踏み越えてしまって未成年をお酒が飛び交う場で働かせることに躊躇などなく、躊躇どころかむしろ舌なめずり、獲物を前にしたピューマが如く息を荒くさせながら使えるものはなんでも使う男なのだから俺がこの卑しくも猛々しく生きるこのピューマの店に店子として働く推定20歳のタカ君を初めて見た瞬間から恋に、いや俺自身が愛に生きる人間だと強く錯覚してしまったのはしょうがないことなのだろう。

彼の顔はまるで職人が一つ一つ手作業で仕上げております、と言わんばかりにどこをとっても誉めそやすべき箇所だらけで、目は一重で緩やかに目尻へと垂れ下がった線を結んでおりしかし黒目は爛々と輝き光が常に当てられているのか?と見まがうほどに目力が強い。鼻は高くそそり立ち鼻筋はスキーのジャンプ台のようにシャープで真っすぐ、それでいて長く伸びていて顔全体のバランスに洒落っ気を持たせる為かのようにきりりと顔の中央に鎮座している。口は小ぶりでマカロンしか食べられないんじゃないか?と思われるほどにチャーミングな唇、潤いはまるで石原さとみのそれで最早常に濡れているんじゃないのか?と思うほどに渇きという現象から真逆の立ち位置を取っている。それでいて顎髭は男性を感じさせるように5mmほどに刈り揃えられていてそれはしっかりともみあげとの連結を見せているから、顔全体を精悍な印象にするのに確実に寄与している。髪型はいつ何時見てもサイドがきっちりと狩り上げられトップはソフトモヒカンならない程度の長さを保っていてギンギンに撫でつけられたジェルの整髪料により髪の毛に一切の乱れを感じさせずまるで海外の人形かのような仕上がりである。

実際に見たわけではないので分からないが、体は程よく鍛えられ服の上からでもその努力の時間を窺い知ることが出来てその意識の高さ、真正面からの努力が結果となっている身体自身の誠実さに非常に好感が持てる。しかしタカ君曰く、「最近はお酒の飲み過ぎて太っちゃいました」と言っていたから筋肉の上に程よく脂肪が乗り、古今東西少し脂肪が乗った女の方がエロいと言われてきた原則はどうやら俺たちゲイの価値観ともマッチするらしく、艶めかしく本能を刺激するお尻にはきっとでっぷりと厭らしいお肉が待ち構えているのだと思うと、はーまったくエッチだってばよと思わずにはいられない。ナルトは”だってばよ”という口癖を使うが、全くの無からだってばよを作り出した作者は凄くないか?とにかくこのタカ君という男が無から創造されたとはぜんぜん想像できない。ゲイを殺すために未来から送られてきたターミネーターじゃないか?ターミネーター3のT-Xはなぜエロい女である必要があったのか?タカ君はそんな我々がJ・モストウ監督に抱えていた疑問に答える存在になっているのだろう。


我々はそんなタカ君が働く新宿2丁目新千鳥街に居を構えるこぢんまりとしたゲイバー「BURST」のカウンターから一番離れた端のソファ席で友人である鉄と一緒にカウンターの中で忙しくそれでいて優雅に躍動するタカ君を見つめているところからやっと物語の口火が切られる。タカ君の描写にし過ぎるということはない。オナニーにし過ぎるということがないように。


「なぁ、鉄よ。つまるところタカ君の意中の人間となるにはどうしたらいいと思う?」


「お前は本当に卑しい人間だ。人が農耕の時代から行ってきた順序、段階というものが分かっていない。今のお前はただ働かず尻をかきながら日が昇るのと沈むのを見ているだけでそれでいて麦はどこだ、米はどこだと言っているに過ぎないんだよ。いいか?人がものを得るにはまず種を撒き芽を育て風雨から作物を体を張って守らねばならない。そうしてやっと成果物というのが手に入るのだ。それなのにお前はなんの努力もせずにあのタカ君に近づけると思っているのか?まず人間らしくしたらどうだ。俺はそこからだと思うね。」


鉄は俺の体をジロジロとねめつけながら苦言を呈す。俺が人間らしくないだと?そもそも人間らしいとは何だというのだ。例えば犬らしいと言えば犬らしさが犬にはあるのだろうが、犬を犬たらしめる要素とは一体何だというのだ。四つ足で歩くことか?それで言えば猫だってそうであるしもっと言えばあそこにいる中野富士見町の駅から歩いて15分、そこはもう中野区ではなく杉並区だろう、中野に住んでいると言いたいが為のあがきが最早みっともないことで有名なバーの常連であるリョウスケという男だって週末はナイモンでハウリングをし自宅で四つん這い待機をしているのだから彼は人間よりも犬らしいと言えるのではないのだろうか。


「つまりどういうことだ。俺は人間らしくないと言ってもここまで馬鹿正直にゲイをやってお前の週末の寂しさに酒と共に付き合ってやって愚直に恋までしているんだ。これが人間でなくて何だというのだ」


「お前はもっと鍛えた方が良いという話だ。そんな中肉中背のど真ん中、日本人の平均をまるで一人で体現しているかのような寸胴ボディであってはお前に振り向く奴もそう多くはないよ。髪を短くしろ。体を鍛えろ。服はユニクロでもいいから小物に金を遣え」


つまり鉄はこう言っているのだ。ここでは髪を短くし鍛えねば人に非ず、と。なんだそれは。軍隊か、ここは。


終電に間に合うように店を出て鉄は新宿三丁目駅から丸の内線へ、俺は自宅がある田端に帰るためにJR新宿駅へと向かう。山手線の中ではTRAIN TVという最近始まった芸人の顔芸を披露するためだけの映像が流れていて、これが異様につまらない。電車に乗っている時にヒカキンの顔芸を見たい人間がどれほどいるというのか。

大学進学を機に地元である栃木から東京に出てきてもう10年ほどになる。昔は電車にテレビがついているというだけで大興奮していたものだが今ではそれに煩わしさを感じているのがなんともと言ったところである。任天堂のクイズのやつは面白いんだけどな。

大学から就職を経て2回、東京での引っ越しを経験したが中野に住んだことは一度もない。「ゲイ 東京」と検索すれば「中野」とサジェストされるほど、ゲイにとって中野とはメッカであり神聖視され巡礼の日には中野の方角、西北西約290°の方角に祈りが捧げられるという。しかし俺は中野には住まない。それは俺のような平凡、いや平凡より少し下、人より若干虫に近い俺が中野に住んだところで 中野の良さを享受できるわけではなくただただ道端でゲイを見かけて「あ、ゲイだ…」と思う回数が増えるだけなのだからむしろ損、届かない果実が身近にあったところでそれに手が届かなければ無意味に身を焦がすだけであり、東京、といった面と身体の良いゲイを見て眼福などと思うことはなくそれが自分の物にならないのであれば見ることに意味はないと俺は思ってしまうのだ。

鉄の言う「努力なしに成果物が手に入ると思うな」という言葉は実のところ非常に耳が痛い話であった。昔から努力を嫌い失敗を嫌い競争を避けてきた俺は周りのものに不満を言うだけの貝であって、俺のステータスを5角形で表すとすると見事に蜆のような形をしているのであろう。

ならば鉄の言うように筋肉をつければこの5角形も大きくなっていき、やがてそれが人の形をとることになるのかもしれない。なにより俺に足りないのは自信、もとい自信の無さから来る劣等感であって体が大きくなった人間は往々にして気分も高揚し2丁目の中通りを大股で歩いているのをよく目撃するからきっとそうすべきなのだろう。しかし筋肉の肥大によって自信がつくとはそれつまり筋肉により自意識を操作されているという何よりの証左であり、力さえ伴えば全能感を得られるのであればそんなのはアメリカ人の勝ち、我々が敗戦国となるのも当然の帰結であって、しかし人間とは意志の強さを以って荒野を歩く生き物であるはずなのだから暴力でこの世を統べたとしてそれがなんになるのか、偉いのは筋肉であってお前ではないのだぞ、ふざけるな、毒矢をくらえ、クロスサンダーチョップ、と矢継ぎ早に筋肉崇拝に対する文句が出てくる。しかし結局のところ「タカ君にモテたい」というデカすぎる欲求がはるか頭上から降り注ぎ、俺の貧相な体はギャッと潰れてしまって田端で降り自宅に向かう途中にあるセブンイレブンの雑誌コーナーから筋トレ特集を銘打っていた「Tarzan」を抜き出しレジへと運んでいた。「Tarzan」の表紙にはこう書かれていた。筋トレと包茎の関係性。正に俺のような人間にはぴったりである。


タカはカウンター席のグラスに空きがないかを目に配りながらも、虚ろな目をしながら客の歌う大して上手くもないスキマスイッチの『藍』に対して手拍子を贈っていた。ゲイバーの店員となって早8ヵ月。大学2年生で現在20歳であるタカは約1年程前に偶々連れてきてもらったこの「BURST」というお店でピューマのような鋭い眼光と異常な強面を持つこの店長、もといママに誘われ客にお酒などを給仕するバイト、店子となることになった。働き始めはまだ大学1年生で当時は19歳だったからゲイバーで働くこと自体問題だったのだが、このピューマ店長の采配により見事に年齢を隠蔽、2か月前に正式に20歳になったことにより今は20歳と公言し年齢によるちやほやを多分に受けている。


元々タカは女性が好きな人間であったが、大学生になってから初めて良い感じになったと思った女性に「えっちしませんか?」と誘ったところ「あんまりいいかな」と断られ、「あんまりいいかな」は相当嫌な時にしか出てこない言葉だと大層傷ついた。ふさぎ込むタカを見かねて高校の先輩に慰めとして連れて行ってもらった観光バーにおいてゲイの店員から「相当イケる」と絆され、女性によって傷つけられた心の穴にゲイの下心を含んだ言葉がなぜかぴったりとハマり、タカはその翌日にはゲイのマッチングアプリをインストールするに至るのだった。

元々小中高と野球をやっていたタカは部活のしごきにより鍛えられており、大学に入ってからは「民族研究サークル」という先輩から聞いたところ方々に旅行に行っては異性と親睦を深めるだけのまったく大学生らしい活動に従事する為に野球からは離れていたがそれでも鍛えられた筋肉が落ちていくことなどは無く、昔取った杵柄、その才能はゲイの為に花開くことになる。

結局はタカもちやほやされてちんぽを気持ちよくされたいだけの猿であったので、最初の頃はゲイバーの接客としてよくも知らないおじさん方に愛想を振りまくことに疑問を覚えていて、客に対して、髭を剃れ、クロックスで来るな、誰々とヤったなどの下世話な話をするな、キレイ売りのノリはもう飽きたから繰り返しするな、などと一々つまらない客に対して苛立っていたものだが、しかし微笑みをたたえてお酒を注いでいれば日々は過ぎていくし、容姿を褒められるのも悪い気はしない、時給にしても地元埼玉の牛丼屋で深夜バイトするよりかは稼げるのだし、これが終われば新中野に住むセフレの家に行ってちんぽをハメることが出来るのだと考えれば存外に早く日々は過ぎていった。


ある日、タカは自分がバイトに入る日に必ずと言っていいほど来店する客がいるのに気付いた。客の名前はええと、なんと言ったか、覚えていないが少し前は鉄、という男とよく来ていた客で最近は一人で来てカウンターの端で静かに飲んでいる。それだけであれば特段気にすることもない、ただの一般客なのだがこの男が見る度にその体付きに変化が起きていて半年ほど前までは中肉中背、特段貶すところも無ければ褒めるところもないと言った印象に残りにくい男であったが、ここのところ上半身の筋肉がメリメリと盛り上がり胸板も数段厚くなっている。それに伴い顔もシャープになっているが、顔自体はやはり印象の残りにくいぼやっとした顔であることに変わりはないのがなんだかアンバランスだ。そして、そのあまりの不自然な体格の変化に違法薬物でも使用しているのではないかと少しだけ店子の間で話題になったことがあった。


新宿2丁目の中通りを大股で歩き新千鳥街にある「BURST」へと向かう。筋肉の重さにより身体が自然と前傾姿勢になり肩で風を切る形で歩くことになる。なるほど、筋肉のついたやつはなぜあんなにも偉そうに歩くのかを疑問に思っていたが、こう歩かざるを得ないのだということに気づいた。バーの扉を開ける。客が一様にこちらを見てまた一瞬でそれぞれの会話に戻っていく。昔はこの視線を怖がっていたものだが、この8ヵ月間の筋トレにより自分が如何様に見られているかということに気づいた。昔は容姿に自信がなく鏡など全く見なかったが、筋肉がつき始めるにつれその経過を見るのが楽しく、部屋に姿見などを買ってしまった。それにより普段のファッションにも気を配るようになり、髭をトリマーで狩り揃え、腕にはG-SHOCKを巻き、靴下のラインの色にこだわり始めた。前の自分は鏡を見ない故に自分の姿を把握できていなかったのだ、鏡を見れば自分の姿におかしいところがないのが分かり堂々としていられる。この気づきは決して筋肉がついたから得たものではなく、今までの己は自身を顧みないことが問題だったのだ、と結論付ける。俺は筋肉により自身、もとい自信が増大したのではなく、内省の果てにこの感覚を得たのだと誰に言うのでもなく客と客の間をすり抜けながら、タカ君に一番近いカウンター席にどっかりと腰を下ろす。

タカ君に「こんばんは」と挨拶され手を軽く挙げることでそれに返す。端的に「午後ストで」と伝えるとタカ君は店長に何か聞いた後ノートをめくりキープボトルの棚から俺の鏡月を取り出し午後スト割を作ってくれた。「タカ君もどうぞ」と言ってあげると「ありがとうございます!」といつもの微笑みを返しながらタカ君はお茶割を作り乾杯をする。乾杯の時に少し顔が近づいた。はぁーヤレヤレ、まったくキュートだってばよ。


「最近何かいいことあったかい?」


タカ君に話しかける。それだけ可愛いのなら良い事なぞあり放題だろうよ、気づいたら3Pになっていたとかおじさんからお金をもらっただとかそういった俺の人生には起こりえない良い事が溢れているに決まっている。しかし俺はタカ君がちやほやされているのを見て妬いたりはしない。俺はそこらの凡百のファンとは違い、弁えているのだ。タカ君は皆に愛されるべき存在である。しかしこれだけバーに通い詰め、顔も覚えてもらったのだからそろそろ大胆な行動に出てもいい頃合いなのではないのだろうか。このカウンターという深く長い溝を超えて、タカ君と親睦をそろそろ深めていいのではないだろうか。俺は一人の人間、いやそれよりも一歩踏み込み雄らしくなっているのだから。


「えー、特にないですよ」


お酒を三々九度みたいに小刻みに飲みながらタカ君は答える。そんなことあるかい。


「そうなのか。え、でもさ、例えばさー、え、エロいこととかしたり」


「あ、ごめんなさい。お酒注ぎます」


タカ君は他の席へ行ってしまった。先ほどからスキマスイッチの『藍』を大して上手くもなく更にはバカでかい声量で歌っている奴がいるので先ほどの会話も聞こえなかったかもしれない。お酒を注ぎ終わったタカ君はカラオケに手拍子をしながら盛り上げていた。いつもの微笑みをもって。うーん、ちんぽはどれくらいの大きさなのだろう。


客も引き払った午前5時半。帳簿と現金の合わせと軽い掃除をしたらバイトは終わりなのでちゃっちゃと済ます。店長はひどく酔っぱらってソファで項垂れているので売上金と現金を突合した旨のメモを残して鍵をかけずに店を出ていく。給料はいつもその日払いの手渡しだがこういった日は店長が酔いから醒めたあとにPayPayで払ってくれることがほとんどだ。既に明るい街へ顔を出し、朝マックでも食べに行こうかと思案していると後ろから急に話しかけられた。


「タカ君!」


振り返るとそこにはいつも店に来る上半身が不気味に膨れ上がった顔の印象の薄い男がいた。名前が思い出せない。先ほどボトルで名前を見たはずだが。あー、だめだ、これ思い出せないやつ。

しかしこの男はカウンターでちびちびとキープボトルを飲みながら歌いもせずにさりとて誰とも話もせずに2時頃に店を出て行った記憶がある。


「奇遇ですね。飲み終わりですか?」


「そうなのです」


そうなのです?しばしの沈黙が降りる。なんなのだこいつは。何の目的があってこちらに話しかけてきたのか、全く見当がつかない。こちとら早く朝マックを食べに行くか、セフレの家に行きたいのだ。客と店員という垣根が取り払われた新宿2丁目の早朝において知り合いでもない興味もない人間に構う必要性は申し訳ないが、ない。


「帰りましょうか。帰りどちらですか?JRですか?」


「はい。JRです。」


「そうですか。俺は三丁目なのですぐそこまで一緒に行きましょうか」


この男が地下鉄だと言うなら朝マックを食べに新宿駅側に行くつもりだったので、ちっ、朝マックは諦めるかと判断がつく。後ろを顧みず俺はさっさと歩きだした。


「そうですか。俺は三丁目なのですぐそこまで一緒に行きましょうか」


タカ君の営業が終わるまでの約3時間、外で待ち続けた甲斐があるというものだ。立ちっぱなしの代償に足はパンパンとなっているが、それもタカ君とカウンターの外で話しかけられただけで浮腫みすら勲章と感じられることだろう。ここで俺の小粋なトーク一つで話も弾めばこのまま朝マックに行ってエッグマックマフィンにでもありつけるはずだ。飲み終わりに朝マックに行く、なんと甘美な響きだろう。これこそが我々人類が目指すべき週末の地平なのかもしれない。


「はい!その、タカ君は朝マックはなにを食べますか?俺はエッグマックマフィンですね。エッグマックマフィンにハッシュドポテトを挟むと美味しくなるのをご存じですか?俺はこう見えて少食なのですが、エッグマックマフィンにだけはハッシュドポテトを2枚挟んでしまいます」


知らね~。

本当に知らない。なんでもいい。あなたのせいで朝マックに行けないのに朝マックの話をしないでくれ。こう見えて少食なのも知らない。意外と少食っぽいですよ?


「俺はフィレオフィッシュですかね~」


本当にどうでもよすぎて嘘をついてしまった。朝マックでフィレオフィッシュ頼むやつなどいないのに。朝と昼、両方に唯一あるメニュー、フィレオフィッシュ。女が好きだったのにいまやゲイの世界に片足を突っ込んでいる俺のような存在だ、と言った後に思った。フィレオフィッシュはもっとちやほやされていいのかもしれない。


「タカ君、良ければこの後朝マックに行きませんか?」


俺のフィレオフィッシュに反応なし。フィレオフィッシュに奇妙な連帯感を感じていた俺からするとそれだけで悲しくなってしまう。再三いうが、なんなのだ、この男は。

この誘いはなんとしても断りたい。後ろへジリ、と足を引くと同時に尻ポケットに入れていたものを思い出す。
…そうだ、これを使おう。先週から働き始めたもう一つのバイト。これで次に繋げつつ印象良く断ろうじゃないか。


「すいません。あんまりいいかな、って感じです。その代わりですが…」


タカは後ろのポケットにしまっていた名刺を取り出す。


「すいません。あんまりいいかな、って感じです。その代わりですが…」


そう言いながらタカ君は俺の身体に抱きついてきた。タカ君の鍛えられつつも柔らかい身体が俺を包む。いい匂いがする。シトラスの香りの男らしい匂いだ。

するとタカ君が俺の手になにか紙を握らせてくる。


「俺、このマッサージ屋で働くことになったので良かったら来てください。友達割しますよ」


握らされた紙を見ると中野を中心に出張マッサージを展開する「BEAR HANDS」の店舗名刺だった。


「え?こ、これ」


「じゃ、今日はありがとうございました!また来てください!」


タカ君は風のようなスピードで新宿三丁目駅の階段を下りて行った。風のような、というか風だった。俺の肩で風を切る姿勢とは違い、軽やかで何にも縛られていない走り方だった。


田端行きの電車に乗り、タカ君に握らされた「BEAR HANDS」の名刺に目を落とす。タカ君とハグは出来た。出来たが、これは、体よく断られただけなのかもしれない。この8ヵ月余りで鍛えた筋肉が萎んでいく感覚がある。風船に小さな穴が開き、ゆっくりとゆっくりと空気が抜けていく映像が頭の中に浮かぶ。穴が開き空気の抜けた風船は二度と空を舞えない。風と共にあることができない。死にたい。けど死にたくない。死にたくないです!!

筋肉をまとい身なりにも自分なりに気を遣ったつもりだがそれでもあの花には手が届かなかった、ということか。やはり顔か。俺はやはり虫だったのか、虫が筋肉をつけたところでただの甲虫。俺はカブトムシだったのだ。カブトムシ?ちょっと待て。カブトムシってかっこいいじゃないか。そういえば、タカ君はこれを渡すときに何と言っていた?


「俺、このマッサージ屋で働くことになったので良かったら来てください。友達割しますよ」


友達割?俺とタカ君は友達だったのか?瞬間、体に風が吹き抜けた。テキサスの乾いた風、メヒコシティの湿気を含んだ風、モンゴルのふくよかな風、マドリードの強い風。俺は自分が手に入れたいものをすでに手に入れていたのかもしれない。やはり俺の武器は顧みることだったのだ。顧みて省みること。反省がある俺は強い。
風が光を運び目に宿る。思わず顔を上げるとTRAIN TVで「ヒカキンが氷水に足をつけて我慢しているのはどれ?フェイクヒカキン」のシーンが流れていた。

ほんとにどうでもいいな。


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