2022/09/13

来年の3月で27歳になる。27歳になる感慨は少し前の日記でも書いたが、27歳といえばで考え続けていたら、カート・コバーンが亡くなったのも27歳だなと思い出した。知ってますか、カート・コバーン。「ニルヴァーナ」のフロントマンです。俺が生まれるころには彼は既に亡くなっていたので、俺自身も彼のドキュメンタリーなどを見て知っている程度だが、昔よく聴いていたんですよ、ニルヴァーナ。俺のようにぼんやりと彼のことが好きな10代、20代は多いのではないだろうか。彼の音楽性については全然語れないのですけれど、彼の生き方には鈍い頭痛のような衝撃を受けていて。詳しいことはwiki見てくださいと投げてしまいますが、どんな人生を送っていたら27歳でショットガンで自殺が出来ますか。薬物中毒を抱えていた事情を踏まえても、27歳で激情に駆られて自殺。その短さに反して輝き過ぎていた彼の人生を想うと自分の人生とのあまりの違いに理解から最も遠い感情である憧れに近い感情が芽生えてしまう。

不健康な人生に多少の憧れはあって、行儀よく生きるより多少の酒とドラッグ、女が人生を彩るという退廃的な、言ってしまえばモンエナやストゼロを呷って寿命を縮めている現代のインターネット的な思考に惹かれてしまう斜に構えた精神は未だに持っているのだと思う。それでも人生を縮める生き方自体に憧れがあるわけではなくて、カート・コバーンやあの手の人たちは人生に大きな目的意識があって常にそれに向かって"走って"いるから好きなのだ。平たく言えば情熱があるってことなのですが、常に"走って"いるって感覚が一番俺の感覚に合う言葉です。素晴らしい人生ってなんなのだろうと考えると、これはただの持論ですが、素晴らしい人生とは人生のあらゆる瞬間、挙動、考えがある一つの結末に向かっている洗練された状態であることを指すと今は考えてます。あらゆる人生の瞬間を抜き取ってもそれはその人の全てであるような状態。めんどくさがって歩いたり横になっているのではなく、常に走ってる人生は素晴らしいと思う。カート・コバーンの人生はそう見えました。

これを逆説的に自分の人生と照らし合わせてみると、俺の休日の一日中ベッドで過ごしちんぽをシコるだけの状態は、俺に人生のなにを要約していると言うのでしょうか。27歳手前になり人生をそこそこ上手く回せるようにはなってきたが、会社で叱られない程度に仕事することと当たり障りのない笑顔を振りまくことは、結局俺の人生の要約にはなり得なくて、上手に時間をつぶしているだけなんですよ。夏休みの宿題を延々と後回しにしているような感覚でずっと生きています。自分の人生に嘘はないつもりだが、本当の事には何一つ触れていない。

四つん這いナイトで強制四つん這いゾーンという催しがあるみたいですが、俺はその場を想像すると恐ろしくなってしまいます。けど本当に人生を走るってことは強制四つん這いゾーンすらも楽しむということなのかもしれない。すいません、これは全然違うかもしれません。なんですか、四つん這いナイトって。ふざけてますよね。


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